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    <title><![CDATA[Deccember2010]]></title>
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    <dc:date>2012-02-05T00:00:00+09:00</dc:date>
    <description><![CDATA[ブログ]]></description>
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    <title><![CDATA[ART and ARCHITECTURE REVIEW]]></title>
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    <title><![CDATA[山崎泰寛　「場所性という場」の更新]]></title>
    <link>http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/Qq1xhDFTgCuBGifM5Zlp</link>
    <dc:date>2012-01-20T15:00:16+09:00</dc:date>
<description><![CDATA[現場百篇という言葉がある。TVドラマで、事件が起こった現場に何度も詣でて、解決の手がかりを得ようという格言のようなものとして聞いた。何度行っても新鮮だと感じるタイプの取材なのか、お百度参り的にただ繰り返す習慣なのか、言うまでもなくその違いはとても大きい。この特集に集められた発言の数々は、一体どんな場所を更新しようとしているのだろうか？<br />
<br />
TNAの武井氏、鍋島氏は、住宅地も、別荘地も、スイスも、パナマも、同じような言葉遣いで語っている。「ちょっとその辺」に親しみがあり、普段足を運ばない土地を憧れを込めて話すようなことはしない。先入観を排して「ニュートラルでいたい」という個別の土地との関わり方が、言葉の端々に行き渡っている。ローカルな場所「を」どう語るのかが問われているというよりも、ローカルな場所「で」どう語るのかという、ある種の方法がそこに示されているのである。<br />
<br />
長谷川豪氏もそうだ。語り口が指向性を持っており、それが方法とぴったり寄り添っている。長谷川氏の語り口を通じて、余白という言葉はもともと「小ささ」を内包している面があるのだなと思う。余白は、キャンバスのような広さもなければ、ほかの空間から自立した（というかほかの空間を排除し、隔絶する）範囲も持っていない。余白はあくまでも他の空間との関係で生まれる大きさ（小ささ）なのである。その関係をスタディの反復によってたぐり寄せ、編み上げていくプロセスが、生まれる建築を強くする。長谷川氏の語り口は、そういった「スタディという場所」が存在することを、あるいは、「スタディが場所をつくる」ことを、端的な事実として伝えてくれる。<br />
<br />
関西の建築家4名を全方位から捉え、語ろうとする態度。 歴史の一コマを見出だし、また、その場を歴史として語ること。固有名が、個人を指し示すのではなく、堆積し、ぬぐい去りがたい時間とともに、ただ、あること。ただの地面が、歴史を帯び、「土地」という場所になる。 倉方俊輔氏のレビューから伝わってくるのは、私たちそれぞれが聴衆としてその場を目撃する（した）ことの重みであると私は思う。<br />
<br />
そして最後に収録された 青木弘司氏と伊藤暁氏のメール対談は、そのような場所を語る言葉が、倉方氏が「関西性」というような意味での「東京性」を帯びて発見されるまでの過程を記している。そう言えるかもしれない。1月27日、19時30分から始まるその企ては、倉方氏が生もうとする場所のように働くのだろうか？ そして、私たちは目撃者となることができるだろうか？ どのような言葉が紡がれ、残されるのか。ぜひ行く末に注目したいと思う。<br />
<br />
山崎泰寛<br />
]]></description>
    <dc:creator>edit1</dc:creator>
  </item>

  <item rdf:about='http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/ScLOq18Q3fvPNWmoyhzM'>
    <title><![CDATA[青木弘司+伊藤暁　「私たちが地域性を再考する理由」　]]></title>
    <link>http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/ScLOq18Q3fvPNWmoyhzM</link>
    <dc:date>2012-01-20T15:00:15+09:00</dc:date>
<description><![CDATA[<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/ScLOq18Q3fvPNWmoyhzM/1' class='imgleft'><br />
<br />
<br />
以下は、 2011年12月に行われたトークイベント「建築と地域性」開催にあたり、企画者のふたりの間で交わされた、地域性をめぐる対話である。<br />
<br />
＊<br />
<br />
3.11以降の主な建築家の議論は、縮退する都市の現状や社会構造を捉えようという内容です。その問題自体は大変意義深く、今後も膨大な時間を割いて議論が行われるべきでしょう。しかしながら、同時に我々は、個別的な実践の場に日常的に身を置き、日々建築を創作しています。特に我々若い世代のその日々の実践の内容は、たとえば小さな住宅の設計や店舗のインテリアのデザイン等に留まっています。<br />
<br />
私たちが危惧しているのは、そのような個別的な実践の中で見出される創作の主題と、都市の様々な問題や建築が依って立つ下部構造を捉えるような大きなテーマが乖離しているように感じられる点です。特に創作の主題としての、いわゆる空間論（空間の構成や性質に関する事柄、身体やマテリアルに関わる問題）が大きな議論の枠組みから取り残されているような印象を持っています。<br />
<br />
私たちは、今を生きる建築家として、新しい創作の論理を構築したいと思っています。その論理の射程は広く、たとえば住宅の空間の構成や性質の問題に言及しつつ都市の下部構造にアプローチするような、様々な立場を行き来する跳躍力に溢れた開放的なイメージを抱いています。<br />
今回は「地域性」に注目することで、このような開放的な論理を導き出すための議論を展開したいと思っています。<br />
<br />
青木弘司＋伊藤暁<br />
<br />
＊<br />
<br />
<strong>第1信：青木＞伊藤</strong><br />
<br />
先日のブレストをふまえ、今のところ想定し得る議論のフレームをスケッチしてみました。以下ご確認下さい。<br />
<br />
建築の発想の立脚点として、乱暴なのは承知の上で分類すると、現状では以下の立場を想定して議論（または創作）が行われていると捉えることができます。<br />
<br />
（1） 社会学／都市論として捉える立場 【都市空間】<br />
　→状況論、社会学、都市の下部構造<br />
（2） 抽象論として捉える立場 【抽象空間】<br />
 →プリミティブ、100年後の未来、“The Man”の空間、（物）化した建物<br />
<br />
以上の立場から抜け落ちている第3番目の視点が、今回注目する「地域性」から捉える立場です。<br />
<br />
（3） 地域性から捉える立場 【場所】<br />
　→コミュニティ、共有性、地域社会、慣習、生活、“People”の空間、〈生きられた家〉<br />
<br />
やや大雑把な捉え方ですが、20世紀に建築家（に限りませんが）が積極的に取り組まなかった枠組みとして「地域性」を位置付けたいと考えています（東日本大震災を契機に、その重要性が浮き彫りになっているように感じられます）。<br />
<br />
そして、この地域性を捉える（3）の立場に注目しつつ、そこから（2）の空間論に自由に架橋できるような、新しい建築の創作の論理（概念）を浮かび上がらせるための議論を展開できれば、と考えています。そのような論理の構築の回路が担保されれば、今度は（1）の都市論と（2）の空間論をブリッジさせる想像力を見出すことができるのではないか、と思っています。<br />
<br />
＊<br />
<br />
<strong>第2信：伊藤＞青木</strong><br />
<br />
ちょっと加筆修正させて頂きました。ご確認下さい。<br />
・「都市空間」と「抽象空間」のキーワードに、個人名を書き加えました。イメージは掴みやすくなるのではないかと思いまして。<br />
・「場所」のキーワードに「環境」を入れてみました。<br />
<br />
＊<br />
<br />
<strong>第3信：青木＞伊藤</strong><br />
<br />
これは良いと思います。<br />
ただ、やはり「都市空間」の代表選手が磯崎新というのはいろいろな意味で誤解を生むかもしれないね。まあ誤解を生むということは、それはそれで良いとも言えるのですが。そもそも僕は「都市空間」に書き添えるキーワードが足りないなぁと思っています。（いや、このあたりは僕の苦手分野でして）追記できるキーワードって他になにかないですかね。<br />
<br />
「抽象空間」や「場所」に添えるフレーズはバンバン浮かぶのですが、まあ、このアンバランスな感覚が、そのまま今の僕の創作感なのかも知れないと妙に納得してしまうわけだけれど・・・。また、藤本壮介を付すのは議論が広がりそうですね。現に「抽象空間」に立脚しながら、「場所」との交通を図るというのが彼のスタンスですから。各立場をブリッジせよ、というひとつのイメージを語る時の導入としても分かりやすいですね。<br />
<br />
しかしながら僕が少し引っかかるのは、（3）の立場に根差した身体性も想定できるということなのですが（つまり“People”）、書き方として、（2）「抽象空間」のところには‘“The Man（抽象化された身体像）”の空間’と入れて、（3）「場所」のところには‘“People（住民＝ユーザーの身体像）”の空間’というふうに入れるということでいかがでしょうか。<br />
<br />
<br />
]]></description>
    <dc:creator>edit1</dc:creator>
  </item>

  <item rdf:about='http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/OuamMcpjfbhyoPiBVLId'>
    <title><![CDATA[青木弘司+伊藤暁　「私たちが地域性を再考する理由」　2/2]]></title>
    <link>http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/OuamMcpjfbhyoPiBVLId</link>
    <dc:date>2012-01-20T15:00:14+09:00</dc:date>
<description><![CDATA[<br />
<br />
<br />
<strong>第4信： 伊藤＞青木</strong><br />
<br />
ご指摘の通り、「場所」に根ざした身体があり得ると言うのはその通りだと思います。しかし、(3)でPeopleと言ったときに、そこにあるのは「身体性」というよりもまさに「文化的な身体」つまり身体そのものなのではないか。<br />
<br />
というわけで、三つの分類の名前を変えてみました。ズバリ「(1)社会性」「(2)身体性」「(3)地域性」です。「性」をつけたのは抽象的な意味合いを含ませるという意図です。というのも、僕としては都市論や社会論もかなりの抽象性を帯びていると思うので、（2）を抽象としてくくってしまうのに違和感が出てきてしまい…。そして、地域論から抽象性を導く、ということについても議論が必要ですよね。いかがでしょうか。あと、「社会性」のキーワードを加筆しました。どうかな、メタボリズムとか。<br />
<br />
（1）【社会性】社会学／都市論として捉える立場<br />
→状況論、都市社会学、都市の下部構造、グローバリズム、新自由主義、郊外化、ディベロッパー、メタボリズム、磯崎新<br />
（2）【身体性】身体論／空間論として捉える立場<br />
→プリミティブ、 “The Man”の空間、（物）化した建物、普遍性、形式性、非日常、マテリアル、藤本壮介<br />
（3）【地域性】場所や個別性から捉える立場<br />
→コミュニティ、共有性、地域社会、日常、環境、慣習、生活、“People”の空間、〈生きられた家〉、個別性、シチュエーション<br />
<br />
＊<br />
<br />
<strong>第5信： 青木＞伊藤</strong><br />
<br />
いろいろ巡って、最終的にピタッとハマったような気がします。<br />
<br />
“身体”と“身体性”とは違う、ということですね。そして、たとえば都市論もまたある意味では抽象論であるという点にも同意します。「社会性」のキーワードも確認しました。“メタボリズム”は良いと思うよ。“新自由主義”も“グローバリズム”と並べるとしっくりくるし。それもこれも「社会性」という言葉で括っているので安心感があります。<br />
<br />
ということで、諸々含めてざっと更新しました。<br />
これをこれから登壇者にセッションのメモとして送付したいと思います。<br />
<br />
（以上、2011年12月に交わされたメールを元に再構成）<br />
<br />
＊<br />
<br />
<strong>「建築と地域性」第2回に向けて／青木弘司＋伊藤暁</strong>　<br />
<br />
「建築と地域性」第1回の議論を通して浮かび上がった問題点は、場所の固有性を建築の発想の手掛かりとする場合、我々は何を抽出できるのか、ということでした。街並や風景、地形や気候風土など、「場所」が持つ特徴は数多ありますが、これらの要素が持つメッセージは一見とてもわかりやすいため、ともすればかなり粗い解像度のまま、直接的に建築に取込まれてしまいます。<br />
<br />
しかも、この方法はとても「簡単」であり、時として地域に対する深い眼差しが無くとも許されてしまう免罪符のように機能します。この短絡の罠が、あたかも最適な地域への姿勢であるかのように振る舞うことには強い危機感を持たざるを得ません。短絡を乗り越え、建築を、建てられる場所や社会、時代に定着させていくためには、地域性と建築の創作を接続するための新しい回路を見つけること、地域性を高解像度で読み解く力を持つことが重要となります。連続トークセッション「建築と地域性」では、そのための論理を導き出し、実践へと繋げていくための対話を進めていきたいと考えています。<br />
<br />
第2回のセッションは写真家の山岸剛氏とともに、場所への眼差しについての思考を拡げていきます。今回は、サブテーマを「人工と自然」とし、氏の活動を人工と自然という観点からお話頂くところから議論をはじめていきたいと考えています。<br />
<br />
写真と建築とは、まったく別の創作手法でありながら、同時に共犯者として社会や時代を記述し、体現するものだといえます。昨年末の「建築雑誌展」で展示された山岸氏の写真には、人工と自然の関係、すなわち人の営為と環境の強烈な交叉が記されていました。あの場に展示された写真が切り取った断面とはいかなるものなのか、その断面から、建築家は何を抽出できるのか、この議論の先には、建築と地域性の関係を記述する、新しい論理への道がひらけているのだと予感しています。<br />
<br />
<br />
<strong>トークセッション「建築と地域性」第2回イベント概要</strong><br />
<br />
テーマ：「人工と自然」<br />
登壇者：山岸剛（写真家） 青木弘司（建築家）<br />
モデレーター：伊藤暁（建築家）<br />
コメンテーター：平瀬有人（建築家）<br />
<br />
日時：1月27日(金)　19:00開場 19:30スタート（22:00頃終了予定）<br />
場所：STUDIO4（東京都品川区小山4-7-15　石神ビル2F、東急目黒線「武蔵小山」駅から徒歩5分）<br />
入場料：1000円（ワンドリンク）<br />
<br />
イベント詳細、申込はこちら→ http://p.tl/O1lc <br />
<br />
＊<br />
<br />
<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/OuamMcpjfbhyoPiBVLId/2' class='imgleft'><br />
<br />
青木弘司（左）<br />
1976年北海道生まれ。藤本壮介建築設計事務所を経て、青木弘司建築設計事務所主宰<br />
<br />
伊藤暁（右）<br />
1976年東京都生まれ。aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所を経て、伊藤暁建築設計事務所主宰<br />
<br />
<br />
<br />
]]></description>
    <dc:creator>edit1</dc:creator>
  </item>

  <item rdf:about='http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/oqTrBQgZJE2KMU8aXAwP'>
    <title><![CDATA[倉方俊輔　「関西・建築家のネクストステージ」]]></title>
    <link>http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/oqTrBQgZJE2KMU8aXAwP</link>
    <dc:date>2012-01-20T15:00:13+09:00</dc:date>
<description><![CDATA[<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/oqTrBQgZJE2KMU8aXAwP/1' class='imgleft'><br />
<br />
「Another Point of View 住宅設計をめぐる異なる視座からの議論」というトークセッションが大阪市立大学生活科学部で行われたのは、2011年11月21日のことだ。作品について具体的に語り合う場を持ちたいという思いから、1970年代生まれの建築家４組が自主的に集まり、大学が場を提供した形になる。<br />
<br />
初めに登壇者の４組と発表作品を挙げよう。発表順に、家成俊勝（dot architects）「No.00」（2011）、香川貴範（SPACESPACE）「地面と屋根上の家」（2010）、木村吉成・松本尚子（木村松本建築設計事務所）「4」（2011）、島田陽（タトアーキテクツ）「比叡平の住居」（2010）。個人的には４作品とも実見していたので興味深く、互いに批評に交換可能な形での多様性に、関西の建築家の次のステージが垣間見られた。<br />
<br />
最初の挨拶を、竹原義二（大阪市立大学生活科学研究科教授）が行った。関西に根ざした住宅作家として著名である。軽妙なトークで、会場に詰めかけた学生や関西の若手建築家を沸かせる。このように作品よりも人間が前に出て、理論よりも体感が語られる風土に敬意を表しながらも、そこに新世代の関西建築家は何かを加えたいに違いない。<br />
<br />
<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/oqTrBQgZJE2KMU8aXAwP/2' class='imgleft'><br />
左：地面と屋根上の家（2010、設計：SPACESPACE）<br />
右：No.00（2011、設計：dot architects）<br />
撮影・提供：倉方俊輔氏<br />
<br />
<br />
小池志保子（大阪市立大学生活科学研究科准教授）が全体の司会を行い、倉方がモデレータを務めた。大阪や京都や神戸など、それぞれの文化とまとまりを持っている関西に、新たな交流を生みだそうというこの日の目論見は、一定の成果を挙げたように感じられる。それも具体的な建築作品を通じて。<br />
<br />
４つの住宅を各人が解説した後、後半部では順に他人の作品を評し、質問を投げかける形でディスカションが進行した。大上段なまとめではなく、共鳴するように、理解が進む。それは登壇者相互についてもそうだっただろうし、会場の学生や建築家にとっても同様だと思う。<br />
<br />
<file3:left><br />
左：比叡平の住居（2010、設計：タトアーキテクツ／島田陽建築設計事務所）<br />
右：4（2011、設計：木村松本建築設計事務所）<br />
撮影・提供：倉方俊輔氏<br />
<br />
<br />
「東京」のように、単純に整理しないで、つまり建築に対して社会や思想や、何か外来のテーマを持ち込んだりしないで語り続けていくこともまた、可能な「関西性」ではないだろうか。手を動かしているだけも良いし、時に奇人変人自慢に至る人物評も良いけれど、むしろ、そうした体感的、属人的性格は消し去りきれない地域性なのだから、適度に薄めれば、よい議論の土壌になりそうだ。<br />
<br />
発言は、その内容以上に、対象の属性の何をあえて語り、何を語っていないかということが、思想を表明してしまう。そうした発言者の背景も含めた深い理解に、この地は適している。そうした理解は、他人を真似する方向に働くのではなく、自分に何ができ、何をすべきかという態度を決定するための教養となる。そんな大人の議論が、次世代の関西の建築家の拡がりをさらに涵養していくだろう。４者４様の住宅が提示され、共鳴していく様は、そんなことを感じさせた。<br />
<br />
<br />
倉方 俊輔　Shunsuke Kurakata<br />
1971年東京都生まれ。建築史家。博士（工学）。現在、大阪市立大学大学院工学研究科准教授<br />
学位論文では伊東忠太の思想と設計活動について論じ、吉阪隆正に関する単著を執筆後、戦後建築や、より新しい現代建築にも関心を深めることに。<br />
著書に『ドコノモン』、『吉阪隆正とル・コルビュジエ』。共著に『建築家の読書術』、『東京建築ガイドマップ』、『吉阪隆正の迷宮』、『伊東忠太を知っていますか』ほか <br />
<br />
<br />
]]></description>
    <dc:creator>edit1</dc:creator>
  </item>

  <item rdf:about='http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/Kki4EaOeyW5pZNTrBIfu'>
    <title><![CDATA[長谷川豪　「スタディとリアル」　]]></title>
    <link>http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/Kki4EaOeyW5pZNTrBIfu</link>
    <dc:date>2012-01-20T15:00:12+09:00</dc:date>
<description><![CDATA[<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/Kki4EaOeyW5pZNTrBIfu/1' class='imgleft'><br />
<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/Kki4EaOeyW5pZNTrBIfu/2' class='imgleft'><br />
長谷川豪氏　撮影：AAR編集部<br />
<br />
<br />
建築設計のプロセスにおける検討を「スタディ」という。1990年代後半にCADが登場して以来、建築のスタディのあり方は大きく転換した。今回の対談では、1990年代に建築を学び始め、「スタディ」に重きを置く建築家のひとりである長谷川豪さんに、今日的な「スタディ」のあり方から建築の可能性をお聞きした。<br />
聞き手＝藤村龍至<br />
<br />
<br />
<strong>「余白」をつくる</strong><br />
<br />
藤村　長谷川さんの近著『考えること、建築すること、生きること』のタイトルは、「考えること」と「生きること」、ゾーエーとビオス、政治と身体の間に「建築すること」を位置付ける長谷川さんの意図が感じられて興味深かったです。今日は「余白」というキーワードが長谷川さんの建築的テーマになっているとのことですが、なぜ「余白」を語るに至ったのですか。<br />
<br />
長谷川　僕がこれまで都市住宅を設計することが多かったということが関係していると思います。都市の中で住宅をつくるというのは、場所とか、クライアントとか、具体的に考えれば考えるほど、打ち合わせをすればするほど情報量が多くなって複雑になっていく。基本的に建築は情報量が多いほうが良いとは思うのですが、やはりただ条件への対応を集積すると鬱陶しいものになってしまいがちですから、そうした複雑な状況から一歩出て、外側から見るような視点があると上手くいくことが多いんです。そういう外側の視点を与えてくれるものとして、「余白」というのは効果的だと思っています。<br />
<br />
藤村　「桜台の住宅」「五反田の住宅」「駒沢の住宅」など、都市型の住宅は家の中心に余白的な空間を据えて、建築の中心に位置づけている印象がありますね。<br />
<br />
長谷川　自分としてはだんだん外側に出て行った感じもあります。「狛江の住宅」の道路より1m高い庭は、「余白」が外観に現れて、「余白」がより社会的な存在になっているとも言えます。<br />
<br />
藤村　生活者にとってセキュリティとかプライバシーなどの身体感覚はとても強固なものがあるので、それを開いて外側と関係付けていくには少々レトリックが要ると思いますが、「駒沢の住宅」など、窓の下側まで1,650mm壁が立ち上がっているんだけど視線としては床を介してダイヤモンド（道路サイン）が見える、というような「斜めの視線」は両者を両立する方法として効果的ですね。<br />
他方で天井高で1,650mmとか1,800mmなど、標準的な住宅の「2,400mm」という寸法に慣れた人からすると割とタイトな寸法を使われていますが、そのことについてはどのように考えているのでしょうか。余白的な場所を作るためにタイトな場所を作っているような感じもあるし、逆のような気もするのですが、タイトな寸法に対する志向みたいなものはありますか。<br />
<br />
長谷川　僕が「余白」と呼んでいるのは基本的に大きな空間であることが多いのですが、一見するとガランとした余白の空間というのはやはりシンボリックな見え方をしがちで、それだけだと気になる。ただ強い象徴性をもった空間ではなくて、ガランとした空間のなかに身体性も重ね合わせたい。例えば「桜台の住宅」のテーブルが分かりやすいかもしれないですけど、大きな空間のなかに身を寄せられる身体的な寸法である700mmを内在させるわけです。つまり、身体性を含んだ「余白」を志向しているんですね。<br />
<br />
<br />
<file3:left><br />
駒沢の住宅（2011年）　提供：長谷川豪建築設計事務所<br />
<br />
<br />
<strong>反復と色彩</strong><br />
<br />
藤村　なるほど。ただ、細かい場所をたくさん作ると、平面や断面が過剰に複雑になることが往々とあるわけですが、長谷川さんの建築は細かな場所をつくっているわりには明快な構成をキープしています。その理由のひとつは、長谷川さんの建築は「狛江」が垂直方向に2分割、「浅草」が水平方向に4分割というように、断面が等分割で構成されているというのも特徴になっていて、それが効いていると思うのですがいかがでしょうか。<br />
<br />
長谷川　確かにそうですね。僕は建築の形式がもつある種の強さや超越性を大事にしたいと思っていて、例えば「反復」というのは建築の超越性の最たるものです。列柱などが分かりやすい例ですが、部位が反復されるとやはり建築にしかつくり出せない強さが現れます。狛江は反復というよりも鏡像反転と言った方がいいかもしれませんが、浅草の４分割にはやはり積層建築がもっている反復性への自分の興味が表れていて、そうしたドライな部位の反復のなかに、ある種の建築性が生まれると思っています。でももちろん単にそうした建築の形式性だけを表現したいわけではなくて、やはりそこに身体性が重なってきて欲しい。だから浅草の断面は４分割であると同時に、各階の天井高が1910mmであることが決定的に重要なのです。<br />
<br />
藤村　妹島和世さんの「北方ハイタウン妹島棟」や山本理顕さんの「埼玉県立大学」などに顕著ですが、CADでいう「コマンド＋D」、配列複製による反復表現が1990年代のCAD導入の時期に生まれたことは、同時代に建築を勉強していたのでよく分かります。反復表現はコンピューターライゼーションのひとつの現れだとは思いますが、2010年代の今、アルゴリズミックな操作から複雑な形態をつくり出すというアプローチが現れつつあるなかで、「反復性から生まれる建築性」を重要視する長谷川さんの視点は独特だと思いました。<br />
<br />
他方、長谷川さんの師匠の西沢大良さんは『現代住宅研究』の「室内風景論」のなかで「現代住宅の室内風景の混乱は、戦後社会に物の種類が増えた事が原因だ」と定義して、茶色のピアノがある部屋の全体を茶色に塗ったり、シルバーの電化製品がある部屋の全体をシルバーに塗ったりすることで色彩の氾濫に秩序をもたらそうとされていました。長谷川さんの住宅作品をみると、「桜台の住宅」「五反田の住宅」は白を基調としていたのに、近作の「森のピロティ」「駒沢の住宅」は茶色を基調としており、変化が感じられます。色彩について考えていることはありますか。<br />
<br />
長谷川　西沢さんの言葉で印象深かったことのひとつに「白は篠原一男の色だ。妹島和世もそのなかでやっている」ということがあります。白が篠原さんの色だとまでは思いませんが、西沢さんの言いたい事も分かるんです。白は意味をもたない色だと思われがちですが実はそんなことはなくて、真っ白い空間というのは、場合によっては強すぎることもあります。「五反田の住宅」では同じ白い壁でも、外壁とホールと内壁のテクスチャーの違いでそれぞれ違う白壁をつくったりもしました。でもだんだん白という色が「余白」を強く表現し過ぎてしまうことが気になり始めたこともあって、最近は白壁はあまりやらないですね。最新作の「経堂の住宅」では内壁と外壁を同じ素材（繊維強化セメント板）で作ってみたり、いろいろ試行錯誤しているところです。<br />
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五反田の住宅（2006年）　提供：長谷川豪建築設計事務所<br />
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]]></description>
    <dc:creator>edit1</dc:creator>
  </item>

  <item rdf:about='http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/dkvc0CMRUt3KQjHg6GD2'>
    <title><![CDATA[長谷川豪　「スタディとリアル」　2/2]]></title>
    <link>http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/dkvc0CMRUt3KQjHg6GD2</link>
    <dc:date>2012-01-20T15:00:11+09:00</dc:date>
<description><![CDATA[<br />
<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/dkvc0CMRUt3KQjHg6GD2/2' class='imgleft'><br />
狛江の住宅／スタディ模型　提供：長谷川豪建築設計事務所<br />
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<strong>「スタディ」の繰り返しで立ち現れる「リアル」</strong><br />
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藤村　今回のギャラリー間の展覧会「スタディとリアル」に関して、スタディによりリアルに近づくとおっしゃっていましたけれども、長谷川さんのスタディのなかで、模型はどのような役割を果たしていますか。<br />
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長谷川　僕の事務所では基本的に模型でスタディを進めるのですが、ひたすらスタディしているうちに必ず「いい模型」が一つか二つ出てくるんですよね。「いい模型」というのは、こっちに意見を求めてくる。この模型がどういう可能性があるのかどうしても言いたくなるというか、いわば自分たちの案に対してクリティークをし始めるわけです。それを受けてまたデザインし直す。そういうことを繰り返しやっているうちに、自分でデザインしているのかクリティークしているのか分からなくなってくるのですが、そういう感覚になれることが凄く重要な気がします。つくることと分析することが一体的になる。そこまでいくとそのプロジェクトは一気に問題が明確になって、スタディが進むことが多いですね。<br />
<br />
藤村　テーマを見出すためにスタディをすることはリサーチと同じなのですが、大学の授業などで実感することは、模型とはプランを描いて立ち上げたものだと思う人が多いということです。模型を見てプランニングをする感覚が伝わらない印象があります。建築とはまず概念であり、まず概念を整理してから形を与えることで建築が出来上がるという考え方もありますが、長谷川さんは、まず形を立ち上げてフィードバックを繰り返しながら徐々に建築を生成し、概念もその過程で整理されていくという考え方です。<br />
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<file3:left><br />
森のなかの住宅（2006年）  提供：長谷川豪建築設計事務所<br />
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長谷川　そうですね。僕に限った話ではないと思いますが、プロジェクトを育てると同時に自分自身も成長させるというか、最初は自分も思いもよらなかったところまでプロジェクトを運ぶということがスタディの目的だと思います。建築家は固定して動かないで、つくる対象の建築をどんどん変えていくというよりも、建築家も建築もスタディを通じて変化していくというふうに考えたほうが自然だと思います。そうやって学ぶ事と作る事というのは表裏一体だと思うんですよね。<br />
<br />
藤村　「作らないと分からない」という姿勢はすごくよく分かります。我々はそのことを当然の事のように話しているんですけど、案外そこには世代的な共通感覚みたいなものがあって、概念が先にあるんだ、まず概念を整理し、そこにかたちを与えるんだ、という考え方をされる人が上の世代には案外多いです。模型をあまりよく見ていないんですね。<br />
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石巻の鐘楼（2012年予定） 提供：長谷川豪建築設計事務所<br />
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<strong>3.11は建築家が社会に近づくチャンス</strong><br />
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藤村　石巻のプロジェクトは、どこに誰と何を建てるのか何も決まってない状態から始めたそうですが、建築家の職能のイメージは変わりましたか。<br />
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長谷川　一般的に建築家はクライアントに依頼されてから仕事が始まりますが、人を巻き込んで、建築の契機を作るということはすごく新鮮で、普段の設計と違う喜びがありました。石巻のプロジェクトではなにが必要なのかという、「建築の目的」を一緒に探すというところがとても貴重な経験でしたね。また当然独りじゃできないため、いつも以上に色々な人を巻き込むことになりますから、「建築する」ということ全体が大きな祭りのようにも感じられました。<br />
<br />
藤村　建築には独特の祝祭性がありますよね。特に経済状況が下降して「低成長時代」になると、ヨーロッパやアメリカのように、その建築がなぜ必要かという議論を延々として、ようやく建築が作れる社会になるので、建築が建つことをもっと大事にするようになるだろうと思います。体力的には大変ですが、おそらくこれからの建築家の職能は、建築を建てるまでのいろいろなプロセスに対してマネジメントをしないと建築にたどり着かない時代になりつつあるのではないかと思います。<br />
<br />
長谷川　それは逆に建築家が社会に近づけるチャンスではないかと思うんですよね。ヨーロッパに行くと、社会のなかでのアーキテクトの存在感が日本と全然違うことに驚きます。<br />
<br />
藤村　ヨーロッパは建築プロジェクトの数は、もしかすると日本より少ない印象がありますが、建築家の存在感は日本よりも大きいですよね。逆にアメリカでは職能が細分化されすぎたので、それらを統合する「インテグレート」がキーワードになっているようです。そうやって職能の再編がヨーロッパやアメリカで起こっているので、おそらく日本でも大きく再編されていくと思います。<br />
ただ、強調したいのは、建築家は模型を見て空間を感じるとかスケールを測るとかそういう技能で成り立つ保守的な職能です。建築家の職能が広がるということと、建築家が建築の性能を語れなくなるというのは違うと思います。<br />
<br />
長谷川　そうですね。3.11以降、伊東豊雄さんをはじめ世界で活躍している建築家が東北の復興やまちづくりに関わっているという点は、阪神大震災のときとは全然違うと思います。東北の復興がどうなっていくかはまだ分かりませんが、3.11が建築家が社会により深く関わっていくきっかけになっている感じはありますね。<br />
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本稿は2011年12月23日にCNAC LABにて行われたトークイベント「スタディ」での対話をもとにまとめられました。<br />
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長谷川豪　Go Hasegawa<br />
1977年埼玉県生まれ。2002年東京工業大学大学院修士課程修了後、西沢大良建築設計事務所を経て、長谷川豪建築設計事務所設立。現在、東京理科大学、法政大学非常勤講師。2005年 SDレビュー2005鹿島賞。2007年 第9回東京ガス住空間コンペグランプリ。平成19年東京建築士会住宅建築賞金賞。第28回INAXデザインコンテスト金賞。2008年第24回新建築賞<br />
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]]></description>
    <dc:creator>edit1</dc:creator>
  </item>

  <item rdf:about='http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/MhEKo9iyjpnlZ0eHQ1OL'>
    <title><![CDATA[TNA　「建築的アプローチから場所性を考える」　]]></title>
    <link>http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/MhEKo9iyjpnlZ0eHQ1OL</link>
    <dc:date>2012-01-20T15:00:10+09:00</dc:date>
<description><![CDATA[<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/MhEKo9iyjpnlZ0eHQ1OL/1' class='imgleft'><br />
<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/MhEKo9iyjpnlZ0eHQ1OL/2' class='imgleft'><br />
上州富岡駅コンペ最優秀案：駅舎内観　(c)TNA<br />
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都市部や都市郊外の個人住宅からキャリアをスタートし、別荘建築や集合住宅などでも独特の建築を発表してきたTNAが、上州富岡駅のコンペに勝利し、設計を進行させている。プロジェクトごとに固有の表現を掲げてきたかれらが、最近は海外のプロジェクトなども手がけているという。そこでここでは、TNAのおふたりがどのような思考によって場所の固有性を捉えようとしているのか、話を伺うこととした。<br />
聞き手＝藤村龍至<br />
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<strong>上州富岡駅：電車と街を近くする</strong><br />
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藤村　駅には本来街の顔としての象徴性がありますが、モータリゼーションを経て、街の中心が郊外に移り、駅前商店街が寂れている状況のなかで駅を再生することは建築だけの問題ではなく、都市構造全体の問題となっています。「上州富岡駅」(2011-)の場合はどうでしょうか。<br />
<br />
鍋島　上州富岡駅と有名な「富岡製糸場」は徒歩10分程ですが、車で来る方が断然多いのが現状で、駅から続く商店街よりも富岡製糸場のまわりの商店街のほうが元気な印象がありますね。<br />
<br />
藤村　モータリゼーションは全国共通の減少なので、その現象そのものを否定しても意味が無いとはいえ、高校生やお年寄りのような交通弱者は、公共交通機関を使うほか手段がないという現実もあります。<br />
<br />
武井　確かに駅というのは老人や高校生にとって日常的な存在として機能していると思う反面、縁側のように開放的な場所で「非日常的」な時間を過ごすことが、この街の固有の経験になると思っています。駅として最低限の機能がありながらも、駅を通して街から改札まで連続的に繋げることで、いままで見たことのない場所ができるのではないかと思います。<br />
<br />
藤村　市民の日常的な営みと、観光客の非日常的な経験を、どのように繋げられるかということですね。<br />
<br />
鍋島　そうです。縁側に座って障子とガラス戸を開け放したように、電車と街を近くしたいと思いました。例えば、電車を降りて街を見るために、架構を目線よりも高く架けようという意識はありましたね。<br />
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<file3:left><br />
上州富岡駅コンペ最優秀案：駅舎外観　(c)TNA<br />
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<strong>地面から立ち上がってくる建築</strong><br />
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藤村　駅そのものに立面がないということでしょうか。<br />
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武井　我々はそこに可能性があると思っています。立面を作らないと何も無い場所になってしまいますが、柱のブレースに煉瓦を集積させることで、人が建物に寄り添い、建物が人を集める状態を作れるのではないかと思います。今まで遠かった公共建築がより身近になるのではないかと考えています。<br />
<br />
藤村　かつて菊竹さんが言っていたような、床が空間を切り取って柱がそこに場を与えるというような空間のイメージでしょうか。従来の公共建築などではRCの標準スパンで決められた空間に備品として購入されたスチールの家具がぽつぽつと置いてあるというようなイメージでした。<br />
<br />
武井　仮設的なものと恒久的なものの境が「基礎」だとすると、地球にどのように接地するかが本質的な問題で、その接地のあり方に対してもう少しデリケートであるべきだと思っています。ここは駅という枠組みのなかで、待つ＝座るという行為に対して建築がどう関われるかを考えたとき、地面から立ち上がってくる建築がこの街に根付くように思えました。<br />
<br />
鍋島　家具で場を造るイメージですね。<br />
<br />
武井　そうです。土木と建築の境をなくしたいと思っています。今回は幸いにも車止めまで設計させてもらえることになっているのですが、柱も車止めも同じように丁寧に扱いたいということですね。<br />
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廊の家（2008年）　(c)TNA<br />
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]]></description>
    <dc:creator>edit1</dc:creator>
  </item>

  <item rdf:about='http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/tJSrpQbzVR579fwnNcOg'>
    <title><![CDATA[TNA　「建築的アプローチから場所性を考える」　2/2]]></title>
    <link>http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/tJSrpQbzVR579fwnNcOg</link>
    <dc:date>2012-01-20T15:00:09+09:00</dc:date>
<description><![CDATA[<br />
<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/tJSrpQbzVR579fwnNcOg/2' class='imgleft'><br />
キリの家：内観（2011年）　(c)TNA　<br />
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<br />
<strong>キリの家：ユーザーと建築を近づける</strong><br />
<br />
藤村　「基礎を立ち上げ、そこに人が寄り添う」という考え方はすごく建築的な捉え方ですね。一般的には人と空間の関係というと、何かイベントを企画して客を集めるようなことを発想すると思います。<br />
<br />
武井　今までのプロジェクトを振り返ると、場所性というか、場所の質、場所の歴史、場所の環境をどう表出させるかがテーマになっています。なので、私たちは森の中の週末住宅も、プライベートな建物であっても、駅舎も、その場所にしかない固有性を探していると思います。<br />
<br />
藤村　最近発表された「キリの家」(2011)ではどういう発想があのような独特な構成と特殊なボキャブラリーを導いたのでしょうか。<br />
<br />
武井　考えたことが沢山ありました。とはいっても、設計を始める前から「何かこれ」ということがあるわけではありません。むしろ、敷地に行かないと設計は始まりません。そこへ行ってなぜその敷地を選んだのかを考えたんですね。<br />
「キリの家」の場合は、道路ではない暗渠に接していて、あたかもそれが前面道路であるような顔をしていて、川の方へ向かって若干の勾配があり、法規的にも後退距離がかかり風致地区で緑化している住宅が多く、多摩丘陵の斜面が見えるという特徴があり、この場所に住むというのはどういうことかを考えました。<br />
<br />
藤村　すごく小さい敷地のようですが、何坪くらいでしたか。<br />
<br />
鍋島　10坪くらいの極小住宅です。必然的に垂直動線の占める割合が必然的に多くなります。<br />
<br />
武井　建築面積も極小なので、外側に壁を建てるより、センターに厚い壁を建てた方が有効床面積を多く取れることが分かり、最初のスタディでは、スキップフロアと階段で構成されていました。ですが、全てのスペースを使い切りたいと考えると物足りなさを感じ始め、徐々にスラブが曲がり、スタディして上手く曲げていくと、スラブが「背もたれ」や「座るところ」になることが分かり、さらにスケールを調整して、心地よいスペースをとることができました。<br />
<br />
「キリの家」で考えたことは、床を曲げることで、建築の駆体と、家具や椅子や風呂のような建築に付加されるものが切っても切れない関係になって、使用者と建築のあいだに近い関係をつくることです。このような、建築のフォルムが人間の意図を超えて感情行為を誘発することができるというのは、公共的な建築にも応用可能ではないかと考えていて、藤村さんが大学の授業で教えられているように小さな寸法に意識的になることは、大きい建物を設計する上で重要なことだと思います。それは「ディティール」とか「身体的」という言葉では片付けられない感覚ですね。<br />
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<file4:left><br />
キリの家：外観（2011年）　(c)TNA　<br />
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<strong>敷地に行くまではいつもニュートラルでいたい</strong><br />
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藤村　TNAの場合、それぞれのプロジェクトで形式や構成を発明されている印象がありますが、「カタガラスの家」(2008)の発展のようにも見えます。<br />
<br />
武井　多少近いところはあるかもしれませんが、建っている環境が全く同じではないので、ずっと新しい何かを探していて、毎回敷地に行くまではニュートラルでいたいと思っています。<br />
<br />
藤村　「キリの家」で、床を曲げることやタイトな寸法に対して、クライアントはどういう反応だったのでしょう。<br />
<br />
武井　最初は1/100の模型でプレゼンしました。クライアントさんは驚いていたというより「凄い」と仰って、すぐに「これでやりましょう」ということになりました。実際の勾配の角度については横浜の客船ターミナルまで一緒に行って原寸で確認しました。<br />
<br />
藤村　かわいい模型ですね。模型が小さいと抽象的な思考になりますよね。例えば、清家清さんも篠原一男さんも小さい図面でスタディする傾向があって、抽象的な思考を好んでいたようです。<br />
<br />
鍋島　私たちはいつも最初は1/100で、1ミリが10センチという感覚です。お施主さんに見せる時は1/100の敷地模型に1/100の建築模型を入れるスタイルです。模型を大きくして考える時は、完全に現場に入ってからですね。<br />
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<file3:left><br />
キリの家：1/100模型 　(c)TNA　<br />
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<strong>パナマの敷地</strong><br />
<br />
藤村　最近は海外のプロジェクトも進んでいると伺いましたが、今後の展開はどうお考えですか。<br />
<br />
武井　最近スイスで1件住宅が竣工して、今はパナマで1件進んでいますね。ずごくお金もまわっている国なので活気があり、ビルの立ち方はドバイ的です。<br />
<br />
藤村　それは運河があるからですか。<br />
<br />
武井　そうですね。パナマ運河は世界の物流の7割が通過すると言われているので、結節点のような感じです。敷地はパナマ運河の横に立地する国立公園のなかで、高温多湿で亜熱帯の植生に近いので、ワイルドでジャングルのような自然環境です。一方で、自動車で3分くらい走れば高層マンションが建つ街に出れて、すぐ隣にはスラム街があり、その反対側に貿易の船が通っています。我々としては、異質な自然環境と都市環境が濃密に交錯しているなかで、雨がたくさん降る高温多湿な環境条件から建築を作るきっかけを発見したいと思っています。<br />
<br />
藤村　すごく濃密な建築が出来そうですね。完成したらまたお話を伺わせて下さい。<br />
<br />
2012年1月17日  TNAにて<br />
<br />
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<file5:left><br />
<br />
武井誠（右）<br />
1974年東京都生まれ。1997年東海大学工学部建築学科卒業(山田守賞)、東京工業大学大学院塚本由晴研究室研究生＋アトリエ・ワン、手塚建築研究所を経て、ＴＮＡを鍋島千恵と設立。現在TNA代表<br />
<br />
鍋島千恵（左）<br />
1975年神奈川県生まれ。1998年日本大学生産工学部建築工学科卒業後、手塚建築研究所を経て、現在TNA代表<br />
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]]></description>
    <dc:creator>edit1</dc:creator>
  </item>

  <item rdf:about='http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/HlbdQODFs2BYtEV3g54e'>
    <title><![CDATA[藤村龍至　「社会全体のアイデンティティを再生するために」]]></title>
    <link>http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/HlbdQODFs2BYtEV3g54e</link>
    <dc:date>2012-01-20T15:00:08+09:00</dc:date>
<description><![CDATA[<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/HlbdQODFs2BYtEV3g54e/1' class='imgleft'><br />
天王洲アイル　提供：AAR編集部<br />
<br />
<br />
今月は「場所」をテーマにしたい。いうまでもなく「場所」や「地域性」というトピックは近代主義批判として繰り返されてきたモチーフである。国家が近代化する過程で、国際的な競争のなかで資本主義経済を円滑に進める必要があり、労働力を流動化させるために、均質な空間を用意する必要があった。そのことと引換に、私たちの社会は身分や地域による格差を埋めることができた。<br />
<br />
その代わりに場所の固有性は失われ、所得による格差が顕在化しているのが近代化以後の社会、すなわち現代である。建築家はこの40年、「場所」を取り戻すために、記号を問題にしたり、素材を問題にしたり、コミュニティによる生活のありようを問題にしたりして、何とか近代化のプロセスで社会から失われたものを指摘して、取り戻そうとしてきた。<br />
<br />
その試みはすでにこの40年くらい断続的に続いていることであるが、なぜ、ここに来てそのことが改めて問題になるのだろうか。もしかするとそこには、日本人のアイデンティティのゆらぎが関係しているのかも知れない。場所が失われても、風景が均質化しても、経済が好調な時代は、まだそれを気にする機会は少くて済んだ。ところが、経済が失速して人口減少が始まり、社会の縮小が始まると、場所の不在が自らのアイデンティティの不在の表れとしてより強く迫ってくるのではないか。<br />
<br />
そのように考えると、今回の特集のなかで青木弘司氏と伊藤暁氏が交わしている討議は興味深い。彼らによれば、「地域性」が社会性と身体性（政治性と身体性と読んだほうがイメージしやすい）に代わる第3の創作の論理になるのではないかという。なるほどそれは建築家の問題意識のひとつのあり方かも知れない。しかし、社会全体の設計論、つまり、日本社会の全体がアイデンティティを失う元凶のひとつである経済の失速や人口の減少などにどう対するのかについては、より大きな枠組での考察が必要であることは間違いない。<br />
<br />
それでも、建築は場所の固有性を目指して作られるのが妥当である。少なくとも、社会のニーズには答えることになるからだ。そのためのアプローチの秀逸な例として、ここではTNAと長谷川豪の即物的な思考の可能性を指摘しておきたい。ただし、その可能性は場所の固有性を浮かび上がらせることのためだけでなく、今後の社会のありようを設計することのために活用される可能性を指摘しておきたい。<br />
<br />
藤村龍至]]></description>
    <dc:creator>edit1</dc:creator>
  </item>

  <item rdf:about='http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/B3ax2yjUGTVdsiRmDhot'>
    <title><![CDATA[tp8]]></title>
    <link>http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/B3ax2yjUGTVdsiRmDhot</link>
    <dc:date>2012-01-20T15:00:07+09:00</dc:date>
<description><![CDATA[<img src='http://aar.art-it.asia/p/admin_edit1/B3ax2yjUGTVdsiRmDhot/1' class='imgleft'>]]></description>
    <dc:creator>edit1</dc:creator>
  </item>

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