vol.1 東福寺

日本の建築や芸術は、寺院、神社や皇族、貴族から生み出され、町衆がそれらをより身近なかたちに作り変え広く浸透させているー そんな見方を始めた頃から、寺院を見るのも楽しくなった。それまでは見どころが分からず、ただお参りをするだけ。寺院建築は、辛い修行を表した、暗く厳しい戒律の荘厳さがあるだけではない。そこには文化があると気づいた。

できるだけその時代の当事者として妄想し、建築やアートを見ると、鑑賞時間を有意義に使える。その時代の道具や材料、人々のやり取りや、使い方まで。モノは圧倒的に今より少なくても、人間の五感は対して変わるまい。現地に赴く価値はそこにある。

仏閣建築は、大陸から西暦6世紀中ごろから仏教の伝来とともに持ち込まれる。中国の伝統的な建築や美術とともに、優秀な技術者や文化人も渡来して。大陸から持ち込まれたのがベースだが、そこに少しずつ日本の独自性が混じってくる。遣唐使が廃止された後の平安時代はいわゆる鎖国状態。日本の独自性を追求する姿勢が生ま れたと考える。「和様」と呼ぶ、その国風化されている所を探すのが、自分流の 楽しみ方である。専門家でなくとも見分けるポイントを知ってコツをつかめば案外見分け易い。

今回観た東福寺(三門、禅堂、東司他)、大徳寺(大仙院、聚光院、興臨院他)は、中世 の禅宗建築を代表する禅寺だ。禅宗とともに伝来した禅宗建築は「唐様」とも言われるそうだ。一時停滞した大陸との交流 が再開した室町時代には、中国からの輸 入品や様式が多く流れ込んだに違いない。

禅宗は厳しい戒律を重んじる宗派である。 その戒律が敷地の構成全てに意味をもたせている。現世との境界である門をくぐると、 そこから先は花のない修行の場。三つの橋の下に植えられたもみじは外界の雲海を表すのだそうだ。桃源郷とはこの様ではないかと思わせる。


臥雲橋(がうんきょう)から観た通天橋。もみじが一面に植えられている。新緑の青々しく匂い 立つ若葉は、紅葉時期でなくとも圧巻。敷地内に花の咲く植物はご法度だとか。

この幻想的な橋を渡ると、本堂、三門と並び、僧侶たちの宿坊や東司(トイレ)、庫裡(食堂)、 禅堂(坐禅道場)と伽藍配置を見ることができる。 ここで今までに何人の僧侶が生活して来たのか。禅堂は僧の位によりゾーン分けがされていたそうだ。しかし一人に与えられる面積は一畳も無く、80cm程の幅 (ちょうど寝台列車の幅程度である)。建築は、一重裳階(いちじゅうもこし)付き。高さはあれど、中は平屋の仕切り無し。


東司(トイレ)の利用方法が書いてある。排便にも作法あり。

今日は開放されていなかったが、偃月橋の向こうにある龍吟庵や本坊には作庭家・重森三玲の「八相の庭」がある。そちらは昭和の作庭であるから今回は省略を。
室町初期に再建された三門は、禅宗様、大仏様、和様の三つの様式が取り入れられているのが特 徴だ。「和様」の特徴で見極めやすい、平行垂木になっている。中国の禅宗様だと扇垂木となる。日本の建築は斜めの線が好まれなかったようだ。隣の本堂は、焼失で昭和に再建されているが、 和様として床は板敷きで (唐様は土間)、連子窓(縦横に桟が入っている)がつき、バランスよく再建されている。因みに、三門の木材の小口が白いのは、胡粉(ごふん)という腐食防止のために塗る貝殻の粉を塗っている。


三ノ橋のもう一つは1603年から現存する偃 月橋、最も川上にある。偃月は半月の意味をもつ。この下で坐禅修行を重ねる僧侶もいたとか。


禅堂は最古最大、中世から残る唯一の坐禅道場。細かい装飾に目を向けると、日本人が好きな華頭窓や繊細さが伺える波型の格子がある。


東福寺の三門は平行垂木、本堂の上は扇垂木になっているので比べやすい。