May
2010
特集「アーカイブ2.0」
- Introduction
- 藤村龍至「今こそ、アーカイ...
- Cover Interview
- 槇文彦「開かれたアーカイヴ...
- Interview
- 南條史生「グローバルな視点...
- Text
- 保坂健二朗「アートから考え...
- Mail Dialogue
- 井関武彦「アーカイヴに支え...
- After talk
- 山崎泰寛「建築のアーカイヴ...
カテゴリー
山崎泰寛「建築のアーカイヴ、建築の経験のアーカイヴ」
アーカイヴとは、事象を歴史化する概念であり、かつその手法を指すと言える。
矢部俊男氏と井関武彦氏へのインタビューは、過去の成果を凍結保存するパッケージ型アーカイヴよりも、未来への設計図を持続的に描くクリエイト型アーカイヴの果たす役割について多くを教えてくれる。30〜40年先という誇大妄想的な時間軸ではなく、3〜4年先という、実際的な意味合いで予測可能なスパンを設定している点も面白い。
社会的な意義や正しさも確かに重要だが、矢部氏の語る動的なアーカイヴのあり方は、「その次のクリエイション」に遠回りしながらもダイレクトに結びつけられる点で興味深いコンセプトだ。どちらも、「その次のための今」といった歴史性を体現するシステムとして、アーカイヴを捉えているように思える。南條氏の語る時間軸もまた、同じような視座を持っているだろう。
一方で、槇文彦氏と保坂健二朗氏が主張する「日本」的なアーカイヴィングのコンセプト=ネットワーク化の実効性も確認しておきたい。「かつてあったもの」や「つくる過程の記録」の対社会的な共有可能性を設計することが、実物の建築そのものの魅力をつまびらかにすることに直結しているのである。プライベートな建物はもちろんだが、パブリックな性格を持つ建築物でも、存在自体が失われてしまえば元も子もない。だから、言うまでもなく建築は接地する唯一無二の存在であり、アーカイヴが地域性を帯びるのも当然なのだ。
それにしても、と思う。
これまで建築は、図面や模型、映像のようなメディアが記録そのものの役割を果たしてきた。それらは、ある程度の物的「確かさ」を有してもいて、ゆえに各々がフェティッシュな「作品」と見なされることも少なからずあった(し、これからもあるだろう)。
では、建築の経験は一体どのように記録され、アーカイヴされていくのだろうか。経験は、気付かれる間もなく忘却の彼方へと霧散する、とてもはかないものだ。
2010年現在、私たちは何かを語る「語り方」としてさまざまなチャンネルを持ち始めている。例えば、ある身体的な経験をブログやTwitterなどでログ化すれば、それらはある時代の建築を取り巻く雰囲気を知る上で、重要な手がかりになる(多少のノイズも混ざるだろうが、それは「生活音」として積極的に引き受けるほかあるまい)。そう、建築の経験は語ることによって参照可能なかたちに定着できるのである。
その意味で、アメリカ議会図書館が全文保存するというTwitterのボリュームは、この時代の建築に添え書きされた無数のキャプションの群れとして、アーカイヴの役割をまっとうに果たすに違いない。言い換えれば、私たちは、無数のログによるボリュームの編み上げに、日々参加している。それもまた、ネットワーク化によってクリエイト型アーカイヴに資するはずだ。
山崎泰寛
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矢部俊男氏と井関武彦氏へのインタビューは、過去の成果を凍結保存するパッケージ型アーカイヴよりも、未来への設計図を持続的に描くクリエイト型アーカイヴの果たす役割について多くを教えてくれる。30〜40年先という誇大妄想的な時間軸ではなく、3〜4年先という、実際的な意味合いで予測可能なスパンを設定している点も面白い。
社会的な意義や正しさも確かに重要だが、矢部氏の語る動的なアーカイヴのあり方は、「その次のクリエイション」に遠回りしながらもダイレクトに結びつけられる点で興味深いコンセプトだ。どちらも、「その次のための今」といった歴史性を体現するシステムとして、アーカイヴを捉えているように思える。南條氏の語る時間軸もまた、同じような視座を持っているだろう。
一方で、槇文彦氏と保坂健二朗氏が主張する「日本」的なアーカイヴィングのコンセプト=ネットワーク化の実効性も確認しておきたい。「かつてあったもの」や「つくる過程の記録」の対社会的な共有可能性を設計することが、実物の建築そのものの魅力をつまびらかにすることに直結しているのである。プライベートな建物はもちろんだが、パブリックな性格を持つ建築物でも、存在自体が失われてしまえば元も子もない。だから、言うまでもなく建築は接地する唯一無二の存在であり、アーカイヴが地域性を帯びるのも当然なのだ。
それにしても、と思う。
これまで建築は、図面や模型、映像のようなメディアが記録そのものの役割を果たしてきた。それらは、ある程度の物的「確かさ」を有してもいて、ゆえに各々がフェティッシュな「作品」と見なされることも少なからずあった(し、これからもあるだろう)。
では、建築の経験は一体どのように記録され、アーカイヴされていくのだろうか。経験は、気付かれる間もなく忘却の彼方へと霧散する、とてもはかないものだ。
2010年現在、私たちは何かを語る「語り方」としてさまざまなチャンネルを持ち始めている。例えば、ある身体的な経験をブログやTwitterなどでログ化すれば、それらはある時代の建築を取り巻く雰囲気を知る上で、重要な手がかりになる(多少のノイズも混ざるだろうが、それは「生活音」として積極的に引き受けるほかあるまい)。そう、建築の経験は語ることによって参照可能なかたちに定着できるのである。
その意味で、アメリカ議会図書館が全文保存するというTwitterのボリュームは、この時代の建築に添え書きされた無数のキャプションの群れとして、アーカイヴの役割をまっとうに果たすに違いない。言い換えれば、私たちは、無数のログによるボリュームの編み上げに、日々参加している。それもまた、ネットワーク化によってクリエイト型アーカイヴに資するはずだ。
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