February
2010
特集「設計プロセス論の現在」
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中山英之「レガシーがログに化ける瞬間」


住宅「2004」スケッチ 提供:中山英之建築設計事務所
中山英之氏の建築からコンピュータ・アルゴリズムの働きを直接感じることは少ないが、中山氏のスケッチには「ゴールイメージを描かない」という明快な特徴がみられる。処女作『2004』を設計されていたとき、断片的なシーンのスケッチだけをスタッフに渡し続けて、それをあるタイミングで模型にしたら、それに驚いてまた設計が進んでいったというエピソードがある。そうした部分的な想像を積み重ねて行く設計プロセスに、ある種のアルゴリズミックなダイナミズムを感じるところがあり、今回話を伺うことにした。
聞き手=藤村龍至
彷徨う時間が許されるようになってきた
藤村:ゴールイメージを描かない設計って、楽しい反面、終わりが見えないから、不安になりませんでしたか。
中山:最初は不安だったんですけど、試してみようと思ったのは、2000年からの8年間を過ごした伊東豊雄建築設計事務所での経験が大きかったです。
藤村:どういった経験だったんですか。
中山:建築の設計は、設計の前半で決めた大きい決定から始まって、そこから使われる時間までを含めたちいさな決定たちをいかに組織し続けられるか、っていう時間の流れになるわけですよね。その方法が何となく、8年の間にもどんどん変化していったなっていう感じがあったんです。
藤村:なるほど。それは具体的にはどのような変化だったんでしょうか。
中山:たとえば「通り芯」のような最初に決まるべきものを、全然決めないまま設計が進んでいくようになった、っていうことです。
藤村:なにか理由はあったのですか。
中山:シミュレーションが機能し始めた、ということです。主に構造解析、それから温度分布とか照度分布とか、そういったシミュレーションが設計に役立てられるようになりました。一般にシミュレーションというと、「=最適化」っていう部分が注目されると思うのですが、実際に仕事をしていると、単に「決める」ということが差し当たっての目的にならなくなる、という側面の方が強かったんです。シミュレーションの結果というのは、別の価値観に照らし合わせたときに意味を持つようなものですから、それ単体では機能しません。それに気づいたのが一番の変化だと思います。つまり、「決めない」からこそ別の条件を導入できるわけです。結果として、打ち合わせの時間の目的が、必ずしも「決める」時間として意識されなくなっていきました。よく複数のシミュレーションが連動するしくみを定義することを「アルゴリズム」と呼んだりしますが、これを単に「決める」プロセスの自動化だと捉えてしまうと、設計者の主観の排除とかそういう話にすぐなってしまう・・・・
藤村:最適化の問題ですね。
中山:そう。プロセスをどこで止めるのか、という考え方です。できあがった形は、無数にある可能性のいち切断面というかたちをとるしかない、という・・・。雑誌『思想地図』の対談記事*1で、磯崎新さんが過去にアメリカ西海岸の若手建築家の騎手であったグレッグ・リンとの議論として、そういった話をされていますね。でも、実際にはプロジェクトに関わっている複数の業種をまたいだメンバーのなかで、同じく複数のシミュレーションが連動したところに現れてくる敷居値の動き方のようなものが感覚として徐々に共有されていくと、少なくとも途中から「決める」っていうプロセスが目的から消えていくものなんですよね。
藤村:決定が相対化されるわけですね。
中山:これは経験談でしかないのですが、今までは早い段階で大きなところをまず決めておかないと、派生してくる細かい決定や検討が始まらない、っていうのが「建築」だったと思うのですけれど、今話したような日常の中では「決めずにおく」ことが、対象をもっと知ることにつながっている、という感じです。
藤村:決定を先延ばしにして、どういうことを議論されているんですか。
中山:そこが少し困ったところで、「雑談の時間が延びる」っていう・・・。たとえばスパンがちょっと大きくなると、これまで「くぐる」感じがしていた架構が単に「柱と梁」としてしか見えてこなくなってきた、とか、それに伴って架構が逆に超越的な枠組みとして強まって感じられるとか。あるいはそれが「いい」のか「悪い」のか、みたいな話です。それだけでは建物全体を理解するための背骨にはとてもならないような、感想や印象のようなものを述べあう時間が長くなります。
藤村:創作の場面では、そういう印象論を口にするって大事ですよね。
中山:でも、僕自身は事務所に入った頃はすごく抵抗がありましたよ。「もっとこう向かい入れるよう感じの曲線で・・・」みたいな話はすごく苦手でした。そんなものよりも、「教会も原型は納屋だった」っていうようなことの方がよっぽど清々しいっていうのは今もあります。感覚的なことがらは発見的に見出されるべきものであって、建築が先回りして埋め込んでおくことは気味が悪いと思っていたわけです。でも、だからといってシミュレーション技術とか、それらが連動するアルゴリズムを定義していくことが客観的な視座を固めてくれるのかというと、それはもっと嘘っぽいな、っていうふうにも同時に思っていました。気味が悪いとは言っても、日常的な印象論みたいなものは会話を滑らかにするし、論点がどんどん変化しながら展開していくのが会話ですよね。だからなんとなく、印象論を嫌って、決定根拠の源流に遡っていこうというようなプレッシャーを建築家が発散するよりも、印象論みたいなものが自由に生み出され続けていく空間のなかで建築が建っていく、っていう時間のほうが、作り方としてちゃんと機能するかも、って思ったんですね。
印象論の新しい働き
藤村:松川昌平さんとずっと議論していることのなかに「決定の妥当性」の問題があります。もし与条件のなかで考えられるかぎりのヴァリエーションを出し尽くすアルゴリズムがあり、そのヴァリエーションを淘汰するもうひとつのアルゴリズムがあれば最終形の妥当性がいえる、と松川さんはいうのですが、その淘汰型の設計プロセスを描くためにはとても高度なアルゴリズムを見出さなければならず、それがネックになっているという気もするんです。他方でさきほどの中山さんのお話は、ある種の恣意性を肯定するかわりに、かなりシンプルな方法論に留まっているように聞こえるんです。
中山:うん、そうですね。僕の話はごくごく初期の経験談として聞いて下さい。道具を渡された人がはじめのうちどう振る舞ったかっていう。

住宅「O邸」スケッチ 提供:中山英之建築設計事務所
藤村:ひとつひとつの選択が恣意的であるにしても、その都度の決定の根拠さえ共有していれば、その選択の社会的な意味での妥当性はいえると思うんですよね。決定の根拠だけを明らかにすればいいのではないか。
中山:設計の説明に「シミュレーション」っていう言葉を使うのは、どうしたって「未来予想」っていう嘘っぽさがつきまといます。だからこそ複数のシミュレーションを重ねて絞り込みの精度を上げていくのでしょうけれど、そうした条件がどんどん増えていくと、シミュレーション相互の連動性が問題になってきますよね。それを定義するのがアルゴリズムです。もし素直に「どんどん未来の精度が上がっていく」っていうふうに考えるのであれば、究極的にはつくっている時間と建ってからの時間が区別されなくなっていくわけですよね。それならつくっている自分もその一部として好きなように振る舞った方が自然だ、って、多分そういう気持ちが無意識のうちに行動に現れたのだと思います。
藤村:建築に関わる時間を、すごく長いスパンで連続的に捉えると、そういう感覚になるかも知れませんね。
中山:建物の設計に対して「目的に向かって最適化していく」っていうイメージを持ちすぎることは、作っている時間と使われている時間を区別してしまうことになります。使い手のひとりとしての自分も早い段階から登場してくる、っていう感覚は、シミュレーションを「決めないエンジニアリングだ」って捉えたときに初めて生きると思います。これは印象論をぶつけ合っているような少しいかがわしい時間の、もしかしたら新しい働きを見ているような気がします。
藤村:例えば家族のなかで明文化した法律なんてないわけですが、生活する上で暗黙のルールみたいなものはあるわけで、それが関係者の間で共有されれば、ガラス、防火シャッター、スラブと問題が次々に増えていったとしても、なんとなく同じ間合いでアルゴリズミックにどんどん消化していけるというイメージですね。
中山:家族の生活には、そもそも軸になるような目的の合意なんてないですよね。だから変化していけるし、その変化を動かしているのは日常的な雑談レベルのやりとりです。同じように、新しい設計条件がどんどん飛び込んで来られるためには、シミュレーションを決めない時間を広げていくエンジニアリングである、っていうふうに捉える方が自然な感じがします。
藤村:なるほど。
中山:もちろん現実の世界でも、たとえば都市ができれば都市計画にはなかった遊郭も一緒にできる、っていうような観察を通じて、人の心の中にある理性と欲望の配分みたいなものが街の風景に正確にプリントされている、っていうように捉えてみることはできると思います。そこから、ヒトのふるまいと風景のあいだにある定理を仮設してみるようなことは、意味があることだと思います。ただ、出来事の集積が風景として焼き付いて行くまでには時間差があるし、その時間を使って重ね書きされた新しい出来事については、事前に決めることを前提にした計画では扱い切れないわけですよね。インターネット上の社会はスピードがもっと速いから、そういったタイムラグがなくなっていくのかというと、それはそれで、たとえば説得力のある「YES」が人を惹きつけることで多数派を形成すると、少数派としての「NO」の価値が相対的に浮かび上がって翌日全体がぽんっと反転するような世界なわけです。そういう現象まで全部含み込んだうえで「決定するんだ」って頑張るよりも、今、自分的にはYESかNOか、みたいなことを言っている時間がすでに風景の一部として機能しているような時間が、設計する時間としてもちゃんと生きるのかどうか、っていうふうに考える方がしっくり来るような気がするんです。
藤村:根拠とか、説明が成立しない状況ですが、そこではどのように設計作業を構築して行きますか。
中山:設計にシミュレーションを取り入れていく過程で、それを決定のための根拠だとは捉えないようにすることで、主観を述べあっているような時間が生きるようになってきた、っていうふうに言いました。それを反対から言い直すと少し長くなりますが・・・つまり、主観を述べあっている時間は、日常会話と同じで「結論」を得ることをとりたてて目的だとは思っていない、それと同じように、とあるシミュレーションについて、それを敢えて何かを決めるための根拠だとは考えないことで、自由に別のシミュレーションとの連動を試していけるわけです。それらをどんどん増やしていくと、使われている時間と計画している時間が近づいていく。シミュレーション=理性、使う時間=感性みたいに切り分けてどっちか、なのではなくて、両者は、一緒に成長するペアのような形でしか広がっていかない気がするんです。

「O邸」竣工写真 提供:中山英之建築設計事務所
藤村:先日磯崎新さんにお会いしたら、人間の身体感覚とか記憶をもって生きていくことっていうのは情報環境なり工学なりがどれだけ拡大したとしても分ちがたくある。そういう身体の「レガシー(遺産)」を支えるのが「建築」だと言えるのではないか、とおっしゃっていました。中山さんはそういったプリミティブな、レガシー・システムとしての身体性と技術的なものの関係について、どのように捉えていらっしゃいますか。
中山:「レガシー」って少しウェットな言葉ですね・・・・。でも、ウエットな反応もある量を超えると、何か「ログ」みたいなものになるんじゃないかな、っていう気はしますよね。自分たちの手を経て風景の一部になっていく建築に対しては、ログとしての冷静さをちゃんと持ち続けたいな、という気持ちはとても強くあります。ただ、ログを生産していくためのシステムをアルゴリズム化して、作る時間もろともそれに同化していく、っていうような設計者の日常は、何か間違いを生むような気がするんですよね。ログをログとして生産するのはバカバカしいっていう普通のレベルで。
藤村:人間の記憶はあらかじめログなのだと。面白い捉え方ですね。
中山:設計者としての自分の日常も、「遺産」をかたちづくっていくような時間とのウェットな関係を持っていないと、ログそのものが成り立たないような気がします。
藤村:人間が理性で関われるのはログの部分だけではないということですね。
中山:ウエットな感覚性を設計に復帰させたい、と思ってなんかいなくて、ただ決定しているつもりの本人だって、それによってできた風景の一部になっている、っていう視点をちゃんと持っていたいんです。どっかで操作側に回り込もうとした瞬間にするっと逃げていっちゃうような感覚っていうのがね、ずうっとあるんです。
2009年12月17日 中山英之建築設計事務所にて
*1 「アーキテクチャと思考の場所」,『思想地図』vol.3所収 , NHK出版, 2009

撮影=加藤孝司
中山英之 1972年東京都生まれ。東京藝術大学大学院修了後、伊東豊雄建築設計事務所を経て、中山英之建築設計事務所主宰