March 2010

粟田大輔「書き換えられるシステム」(1/3)

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左:名和晃平《Catalyst#11》2008 ディテール
vinyl oxide, acrylic panel、200 x 250 x 10 cm、Courtesy of SCAI THE BATHHOUSE
右:泉太郎《さわれない山びこのながめ》(View of Untouchable Echoes) 2009
撮影:田中雄一郎


「借用」から「書き換え」へ

レム・コールハースが『錯乱のニューヨーク』のなかで言及しているように、建築絵師ヒュー・フェリスの描く木炭画が「ゴーストタウン」のごとくマンハッタンの未来を記述していたことはよく知られている。そこでは、1916年に施行されたゾーニング法が一種の自動装置と化し、コードに基づいたセットバックの建築外形が《建築家のための原素材》として都市のヴィジョン(幻視)を映し出していた。 一方でソル・ルウィットは「ジッグラト」*1(1966年)というエッセイのなかで、当時すでに時代遅れとなったゾーニング法に触れながらもセットバックをひとつの論理ととらえ、ジッグラト(階段状ピラミッド)に単一のコードでありながら二つと同じもののない形態のフレキシビリティを看て取っている。ここで改めて指摘するまでもないが、両者には、前事実として設定されたコードが形態を自動的に生成するという共通の態度が見られる。元々 I・M・ペイ設計事務所でグラフィックを担当していたルウィットは、その後「コンセプチュアル・アートについてのパラグラフ」*2(1967年)を記し、作家の恣意性や主観的なものをできる限り排するなかで、最終的な「形態」よりも「構想(コンセプト)」あるいは「具現化のプロセス」(落書き、スケッチ、ドローイング、習作など含む)を重視するコンセプチュアル・アートを提唱するに至る。

こうした動向に対し、美術評論家の峯村敏明は「生きられるシステム」*3(1974年) という論考のなかで、とりわけ1960年代以降「作品の非物体化が進む過程で、フォルムという閉じたシステムではなく、作品のシステムへの開放、あるいは制作そのもののシステム化」といった「芸術の構造的変革」がなされたことを指摘している。ただし、峯村は、ルウィットのシステムを「自己参照」的あるいは「唯我的」なものとしてみなし、その一方で「借用」という語を挙げている。峯村の言葉を借りれば、「借用」には生態系のような循環的な性質と数列のような無限の拡張といった二つの傾向が見出されるが、いずれにせよここでは、他律的なシステムを「借用」することによって内的な規制による閉じた形態(例えば「形式主義」のような)からシステムの働きの様態への移行が唱えられている(さらに、河原温、北辻良央、柏原えつとむ、狗巻賢二らの作品には日本人の精神構造を含意した、他律的なシステムとの「共生」が見出されている)。

しかし、誤解を恐れずに言えば、こうした見解は1960年代に特化されるものではないだろう(峯村の論考でも、冒頭にエッシャーのシステマティックな図案に触れられている)。例えば、シュルレアリスムにおけるオートマティズム(自動記述)やデカルコマニーをはじめとする無意識や偶然への傾倒、あるいは吉原治良の「具体美術宣言」*4(1956 年)における「個人の資質と選ばれた物質とがオートマティズムのるつぼの中で結合されたとき、われわれは未知の、未だ見て経験しない空間の形成に驚いた」または「オートマティズムは必然的に作家のイメージをのりこえてしまう」といった声明などにも、表層的な差異に回収されない、主観から自立した他律的なシステムを積極的に受け入れんとする媒介者のような態度が看て取れる。

このように20世紀美術において、主観とは別なる客観的法則性により作品を自動生成するような「借用」の影響が見られるが、先の1960年代の動向に焦点を絞るならば、それに加え「非物質化(非物体化)」への指向が前景化している。しかし今日から顧みて「非物質化」を指向した作品群が、美術館制度あるいは資本主義システムにおいて依然「物質」として回収されてしまうような現状のなかで(昨今のアーカイヴ議論の沸騰もそのひとつの傾向だと思うが)、また「生きられるシステム」でさえシステム自体がいずれ自壊するような傾向にあるなかでそれらを批判的に乗り越えんとするならば、「物質/非物質」といった二者択一論に収斂されない、形態(表層)とシステム(深層)の連動性にこそ再度目を向ける必要性があるだろう。

こうした問いを、2009年に行われた『思想地図』のシンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」*5における「切断」の議論と交差させるのであれば、ウェブをフィジカルな切断の契機を逸した場としてみなす、あるいはメタフィジカルなものをいかにフィジカルなものに「変換」するかといった「物質/非物質」の二項対立構造へと回収するのではなく、むしろ「切断」をシステムが「書き換えられる」(変更あるいは修正といったレベルではなく)ためのひとつの契機として見直すことはできないか。つまり物理空間であれ仮想空間であれ、自己組織的なシステムが慢性化し、解体(自滅)が免れないような宿命のなかで、「切断」を素朴な実在論として回帰させるのではなく、辛うじてシステムを延命させるための可能態として看て取ることはできないか(ウェブの場合、例えばシステムの運用を停滞させてしまう「エラー」あるいは「ノイズ」を書き換えの契機として想定することはできないか)。よってここであえて論を美術や建築に集約させる必要はないのだが、形態とシステムの連動性といった動的な「書き換え」が、今日美術あるいは建築の分野においていかに実践されているのか、以下見ていきたい。

つづく