August
2010
特集:アートとしての生命
- Introduction
- 藤村龍至「「生命」というテ...
- Cover Interview
- 池上高志「構造としてのアー...
- Interview
- 平田晃久「生命のような建築...
- Text
- 市川紘司 「生命のような建築...
- Mail Dialogue
- 稲葉大明 「マンガのなかの生...
- After talk
- 山崎泰寛「生命が考える」
カテゴリー
山崎泰寛「生命が考える」
メール対談の話題から始めたい。
松島は最初のメールで、「マンガ界で、生命というテーマに対してどのような意識が芽生えているのか」を思考したいと問いかける。マンガに生命性を見出すという発見的な視点から、松島は確信をもって手探りを始め、稲葉が明快に応える。生命を介した二人の応答を読むと、マンガ作品が持つ生命性に合わせて、「マンガを読むことの生命性」がみずみずしく感じられるに違いない。
つまり、「ある変化のただ中に自分がいる」などという客観性を装った物言いよりも、ある変化の途中を生きる生命体として私(や建築)が存在しているという事実を、本特集の4篇ははっきりと指し示している。僕はそう思う。
池上高志氏は、おもむろに「居心地の悪さ」を語り始める。善悪や快不快につながらない「構造」としてアートを捉える池上氏は、ある種の違和感の総体を立ち上げるようとしているのではないか。それは、「AとBの違い」を、異化とか差異のような客観的な表現ではなく、たとえば違和感という、感じるという動作がにじみ出た主体性を思考(と創造)の対象にしているということだ。
続けて平田晃久氏のインタビュー。彼の考え方に触れると、それまで気付くことができなかった慣習を、疑念として取り出すことが許される気がするから不思議だ。建築家が敷地に施してきたさまざまな操作が、実は余計なお世話であり、平田氏はそのおせっかいぶりをどうにかして回避しようとしているように思われた。池上氏と平田氏のインタビューは、読み進めながら世界の見方が変わっていく、そんな驚きをともなうものだ。
それにしても、「生命のような建築」という形容は興味深い。市川紘司氏が、池上氏を引き合いに出しながら述べたように、「多様で複雑な事象を創作的な枠組みにおいて読み取る」行為そのものに映るからである。
ところで、生きとし生けるものが、日々老いとともに生を経験し続けることと同様に、建築はいつの日か死を迎える。建ち上がったその日から、いや、建ち上がりつつあるその時から、時間の中にある。だから、実は平田氏が述べる以上に、生命そのものであると考えてみることもできるだろう。そこには「〜のような」的留保は存在しない。建築を生命だと考えるとすると、身体と都市があるスケールのもとに直結する「ユートピア」のありように、「長い今という時間」が現出し始めはしまいか。「どうだろう」と問いかける市川氏に返答するつもりで、僕はそう考え始めている。みなさんは、いかがだろうか。
山崎泰寛
松島は最初のメールで、「マンガ界で、生命というテーマに対してどのような意識が芽生えているのか」を思考したいと問いかける。マンガに生命性を見出すという発見的な視点から、松島は確信をもって手探りを始め、稲葉が明快に応える。生命を介した二人の応答を読むと、マンガ作品が持つ生命性に合わせて、「マンガを読むことの生命性」がみずみずしく感じられるに違いない。
つまり、「ある変化のただ中に自分がいる」などという客観性を装った物言いよりも、ある変化の途中を生きる生命体として私(や建築)が存在しているという事実を、本特集の4篇ははっきりと指し示している。僕はそう思う。
池上高志氏は、おもむろに「居心地の悪さ」を語り始める。善悪や快不快につながらない「構造」としてアートを捉える池上氏は、ある種の違和感の総体を立ち上げるようとしているのではないか。それは、「AとBの違い」を、異化とか差異のような客観的な表現ではなく、たとえば違和感という、感じるという動作がにじみ出た主体性を思考(と創造)の対象にしているということだ。
続けて平田晃久氏のインタビュー。彼の考え方に触れると、それまで気付くことができなかった慣習を、疑念として取り出すことが許される気がするから不思議だ。建築家が敷地に施してきたさまざまな操作が、実は余計なお世話であり、平田氏はそのおせっかいぶりをどうにかして回避しようとしているように思われた。池上氏と平田氏のインタビューは、読み進めながら世界の見方が変わっていく、そんな驚きをともなうものだ。
それにしても、「生命のような建築」という形容は興味深い。市川紘司氏が、池上氏を引き合いに出しながら述べたように、「多様で複雑な事象を創作的な枠組みにおいて読み取る」行為そのものに映るからである。
ところで、生きとし生けるものが、日々老いとともに生を経験し続けることと同様に、建築はいつの日か死を迎える。建ち上がったその日から、いや、建ち上がりつつあるその時から、時間の中にある。だから、実は平田氏が述べる以上に、生命そのものであると考えてみることもできるだろう。そこには「〜のような」的留保は存在しない。建築を生命だと考えるとすると、身体と都市があるスケールのもとに直結する「ユートピア」のありように、「長い今という時間」が現出し始めはしまいか。「どうだろう」と問いかける市川氏に返答するつもりで、僕はそう考え始めている。みなさんは、いかがだろうか。
山崎泰寛
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