山崎泰寛「『超都市』の住民たち」

本特集に登場する建築家は、みな「超都市からの建築家たち」の出展者である。都市を語り、都市をつくることの現代的な意義に迫る道筋を描こうと議論を重ねてきたTEAM ROUNDABOUTにとって、彼/彼女らが生み出した作品がドライブする「場の強さ」をキュレートすることは、その展示方法自体が都市へのビジョンを語ることに直結しているべきだし、都市的な広がりと深まりを展示という枠組みにおいて設計することである。

藤本壮介氏が取り組もうとする方向性(=読者が期待する藤本像)「こそが」アップデートの対象であること、dot architectsがインクルーシブに再編しようとする「つくる」行為=あまりにも当たり前の行為「こそが」バージョンアップの対象であること、そして阪根正行氏による展評に示される、建築家名がクレジットされた作品(アートピース、アートワーク)の成果と評価軸「こそが」問われているという事実のそれぞれが、得体の知れない「超都市」の茫漠とした姿にかたちを与える、さまざまなフェーズとなっている。引き続き公開される大西麻貴氏と松島潤平(TRA)のメール対談にも、期待していただきたい。

最後に、個人的に印象に残った言葉を挙げておこう。「No.00」のセルフビルド施工にかんして、大東氏が「納めるところは普通に納めたい」と語った点だ。当たり前と言えばまったく当たり前の発言だが、プロの判断を捨てないという決意を示しているとも読める。「セルフビルド」という言葉は、「予算の少なさにともなう素人仕事」のようなネガティブな響きから逃れがたいと思われるが、dotの語る祭り感溢れる施工プロセスは、むしろ「セルフビルドアップ」とでも呼びたくなるような継続性と飛翔感に溢れている。大東氏の発言は、「No.00」というプロジェクトの異様さとまともさを照射するにとどまらず、彼らの活動そのものを積極的に再考させうるのではないか。

ことインタビュー記事の醍醐味は、回答者がいかに借り物の言葉ではなく、自分の言葉で語っているのか。あるいはこれまでと異なる表現を編み出す「現場」を読み込むことにあると私は思っている(むろん論考も同様だ)。この特集上に示された文字群は、新たな批評と創作の前提でもある。ぜひ本文をお読みいただき、会場に足を運ぶことによって、読者が自らの言葉で語り、つくり始めるきっかけとなることを願っている。私たちはみな、「超都市」の住民なのだから。

山崎泰寛

山崎泰寛「生命が考える」

 メール対談の話題から始めたい。
 松島は最初のメールで、「マンガ界で、生命というテーマに対してどのような意識が芽生えているのか」を思考したいと問いかける。マンガに生命性を見出すという発見的な視点から、松島は確信をもって手探りを始め、稲葉が明快に応える。生命を介した二人の応答を読むと、マンガ作品が持つ生命性に合わせて、「マンガを読むことの生命性」がみずみずしく感じられるに違いない。
 つまり、「ある変化のただ中に自分がいる」などという客観性を装った物言いよりも、ある変化の途中を生きる生命体として私(や建築)が存在しているという事実を、本特集の4篇ははっきりと指し示している。僕はそう思う。

 池上高志氏は、おもむろに「居心地の悪さ」を語り始める。善悪や快不快につながらない「構造」としてアートを捉える池上氏は、ある種の違和感の総体を立ち上げるようとしているのではないか。それは、「AとBの違い」を、異化とか差異のような客観的な表現ではなく、たとえば違和感という、感じるという動作がにじみ出た主体性を思考(と創造)の対象にしているということだ。
 続けて平田晃久氏のインタビュー。彼の考え方に触れると、それまで気付くことができなかった慣習を、疑念として取り出すことが許される気がするから不思議だ。建築家が敷地に施してきたさまざまな操作が、実は余計なお世話であり、平田氏はそのおせっかいぶりをどうにかして回避しようとしているように思われた。池上氏と平田氏のインタビューは、読み進めながら世界の見方が変わっていく、そんな驚きをともなうものだ。
 それにしても、「生命のような建築」という形容は興味深い。市川紘司氏が、池上氏を引き合いに出しながら述べたように、「多様で複雑な事象を創作的な枠組みにおいて読み取る」行為そのものに映るからである。
 ところで、生きとし生けるものが、日々老いとともに生を経験し続けることと同様に、建築はいつの日か死を迎える。建ち上がったその日から、いや、建ち上がりつつあるその時から、時間の中にある。だから、実は平田氏が述べる以上に、生命そのものであると考えてみることもできるだろう。そこには「〜のような」的留保は存在しない。建築を生命だと考えるとすると、身体と都市があるスケールのもとに直結する「ユートピア」のありように、「長い今という時間」が現出し始めはしまいか。「どうだろう」と問いかける市川氏に返答するつもりで、僕はそう考え始めている。みなさんは、いかがだろうか。

山崎泰寛

山崎泰寛「『超』表層の深層と実践」


「建築はどこにあるの?」展における中村竜治氏の作品「とうもろこし畑」には、たくさんの距離が内包されていると感じた。この視線の向こうと、あの部分の焦点が、その作品を介して重層していく。小山泰介氏の作品を前にして、見れば見るほど一体自分が何を見ているのかが揺さぶられる感覚と、背中合わせなのではないかと思う。中村氏と小山氏の作品に共通するのは、一見微細な差異に過ぎないものごとを徹底的に思考の対象とすることで、表現がどこか遠くの星の世界の出来事に思えるほどに突き抜けてしまっている点なのかもしれない。生み出される作品と同様に魅力的な(個人的な)言葉で、二人はインタビューに答えてくれた。

そういえば、近美の展覧会では、一定の条件さえクリアすれば、作品を写真に収め、ブログなどにアップすることが許されている。来場者がケータイやデジカメなどで自らのストレージに記録を残していく様子を指して、この展覧会のもっとも表層的な表象だと言うことができるのかもしれない。そうやって作品の「ありさま」が個人的に記録され、社会的に複製されていくことそのものが、「どこ」といって名指すべき建築を、展覧会場から別のサイトへと転写するからだ。この特集がアップされる時点でもまだ、その「超」表層な試みは8月8日まで継続中である。小山氏の語る「グレーゾーンのバリエーションを見せる」メディアとして、写真を経験することが可能だろう。

また、小山氏の個展「Melting Rainbows / Starry」は7月11日まで、東京・恵比寿のG/P galleryにて開催中だ。後日公開される二本のテキストは、2010年の現時点の表現を歴史化する絶好の機会になるだろう。二つの展覧会を同時期に経験することで、その理解はますます深まる。確実に言えるのは、このチャンスを逃す手はないということだ。

山崎泰寛

山崎泰寛「生きることと生むこと」

音楽と美術、社会学と情報学——一見、前者は芸術の、後者は科学の名の下に包含されるように思われる。そして各ジャンルのトップランナーの思考と方法がここに開陳されているとも言える。

だが、本号に並んだ記事を読むにつけ、記事の対象となる人物の誰もが、既存のジャンルを大胆にまたぐ超人のような横断可能性に併せて、一個人をベースに、周囲にじわっとにじみ出す求心可能性を身にまとっているのではないかと私は思う。決して軽やかな動きではなく、見方によっては不器用にすら映るかもしれない。

過渡期という言葉がある。「旧いものから新しいものへと移って行く途中の時代」を指す。この広辞苑の解釈では「混乱」という言葉が例文に用いられており、さまざまな物事が変化と淘汰の波に洗われる、野蛮な季節であることが分かる。WEBの存在が当然の(公然の)ものとなった現代は、既存の枠組みや価値観が大きく揺さぶられている、つまり、過渡期であると捉えられやすい。しかし、彼らは現代を過渡期だと認識しているだろうか?

彼らは、ゆらぐジャンルの境界線上で天を仰いで踊るのではなく、足下とその周囲を見回してステップを刻む。時代ごとのジャンルの異動に惑わされず、しかし、刻んだステップが歴史の痕跡となることにためらいがない。彼らが私たちに示しているのは、この世界が、小さな相互参照のサークルに閉じているのではなく、その歴史を自覚しつつ生きつづけることができるダイナミックな世界だという事実にほかならない。

今号で「生まれつつあるもの」は、おそらくこれからも、さまざまな物事を「生み続けていくもの」であるだろう。生きるという自動詞が、生むという他動詞を導く時代に、私たちは生きているのである。

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山崎泰寛「建築のアーカイヴ、建築の経験のアーカイヴ」

アーカイヴとは、事象を歴史化する概念であり、かつその手法を指すと言える。

矢部俊男氏と井関武彦氏へのインタビューは、過去の成果を凍結保存するパッケージ型アーカイヴよりも、未来への設計図を持続的に描くクリエイト型アーカイヴの果たす役割について多くを教えてくれる。30〜40年先という誇大妄想的な時間軸ではなく、3〜4年先という、実際的な意味合いで予測可能なスパンを設定している点も面白い。

社会的な意義や正しさも確かに重要だが、矢部氏の語る動的なアーカイヴのあり方は、「その次のクリエイション」に遠回りしながらもダイレクトに結びつけられる点で興味深いコンセプトだ。どちらも、「その次のための今」といった歴史性を体現するシステムとして、アーカイヴを捉えているように思える。南條氏の語る時間軸もまた、同じような視座を持っているだろう。

一方で、槇文彦氏と保坂健二朗氏が主張する「日本」的なアーカイヴィングのコンセプト=ネットワーク化の実効性も確認しておきたい。「かつてあったもの」や「つくる過程の記録」の対社会的な共有可能性を設計することが、実物の建築そのものの魅力をつまびらかにすることに直結しているのである。プライベートな建物はもちろんだが、パブリックな性格を持つ建築物でも、存在自体が失われてしまえば元も子もない。だから、言うまでもなく建築は接地する唯一無二の存在であり、アーカイヴが地域性を帯びるのも当然なのだ。

それにしても、と思う。

これまで建築は、図面や模型、映像のようなメディアが記録そのものの役割を果たしてきた。それらは、ある程度の物的「確かさ」を有してもいて、ゆえに各々がフェティッシュな「作品」と見なされることも少なからずあった(し、これからもあるだろう)。

では、建築の経験は一体どのように記録され、アーカイヴされていくのだろうか。経験は、気付かれる間もなく忘却の彼方へと霧散する、とてもはかないものだ。

2010年現在、私たちは何かを語る「語り方」としてさまざまなチャンネルを持ち始めている。例えば、ある身体的な経験をブログやTwitterなどでログ化すれば、それらはある時代の建築を取り巻く雰囲気を知る上で、重要な手がかりになる(多少のノイズも混ざるだろうが、それは「生活音」として積極的に引き受けるほかあるまい)。そう、建築の経験は語ることによって参照可能なかたちに定着できるのである。

その意味で、アメリカ議会図書館が全文保存するというTwitterのボリュームは、この時代の建築に添え書きされた無数のキャプションの群れとして、アーカイヴの役割をまっとうに果たすに違いない。言い換えれば、私たちは、無数のログによるボリュームの編み上げに、日々参加している。それもまた、ネットワーク化によってクリエイト型アーカイヴに資するはずだ。

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山崎泰寛「さわれない語りのながめ」

都市とは、人が集まったある領域を指す言葉だ。本特集では、その「ある領域」をさまざまに捉えかえす4本のテキストが並んでいる。

ダン・グラハム氏は、作品を媒介に都市空間の発見的な経験をもたらす。印象深いのは、世界を受け止める彼自身の受容性の高さだ。泉太郎氏の語る「コントロール」は、作品の制作過程が持つインタラクティブな効果を観客にも作者にも投げ返す仕組みを持っている。特に、3語で成り立つ「さわれないやまびこのながめ」が、さわれないやまびこ(やまびこ=音には触れることができない)、やまびこのながめ(やまびこ=音を見ることはできない)と、いずれの「係り」においても不可能性を有しつつなお、制作を駆動するタイトルとなっている点に強く共感する。また、「藝大不合格者展」をぶち上げた黒瀬陽平氏による、ぎらつく言葉で書き上げられたカオスラウンジ宣言は、藤村とのやり取りの濃密さとともに思い出され、今後くり返し参照されるに違いない。

ところで、「芸術・美術がアートと呼ばれるようになって久しい」という木ノ下智恵子氏の問いかけは興味深い。ローレンス・レッシグに端を発する「アーキテクチャ」の概念は、言うまでもなく建築が建築と訳される前の言葉、つまり原語として理解されてきた。私には、その響きには日本語の「建築」が纏っている独特の重々しさは感じられず、言ってみれば「ある構造」ぐらいの、動きのある仕組みを想像させる。

芸術がアートになったことで起こった変化のひとつに、木ノ下氏が語る「概念のリノベーション」があるとするならば、「建築がアーキテクチャと呼ばれるようになって久しい」と語られる日が到来するのも、そう遠くないのかもしれない。

山崎泰寛


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山崎泰寛「技術はなぜ媒体たりえるのか」

——イメージと作業が相互に補完しながら支えあっている——

杉本博司氏が述べた印象深いフレーズだ。物事の特徴をいっときに掴まえてしまう杉本氏の作品が、何よりも作家本人の正直さによって支えられていることを改めて気づかされる。身体性とイメージの関係性を語る方法論が、杉本氏固有の言葉で語られていることが興味深い。

一方で、重さも境界も単位もない「『リアリティの欠如した世界』観の片鱗を現実に持って来られるか」と徳山知永氏は語る。彼がプログラムする世界は、人が孤独であることをどこまでも認める、ヒューマンな空間なのではないかと思う。また、木内俊克氏が語る決定論は、テクノロジーの機能と介在性を扱っている点で、前号の松川-藤村対談と完全に共振しているし、「書き換えのシステム」に方法論の現在を見出す粟田大輔氏の論考と、トークセッション「アートと建築:今わたしたちが表現したいこと」(松島潤平によるレポート)はともに支え合う関係にある。両者とも、ぜひ併せて再読いただきたい。

ところで、先月号の特集「設計プロセスの現在」では、設計プロセスを通じて、方法とは何かという大きな問いを投げかけることになった。「アート」を直截に語らないことによってなお、創作の現場特有の、肌が粟立つような感覚を覚えられたのではないかと思う。方法についての議論は、一見するとさまざまな物事を一点に収束する方向性を持っているように思われるかもしれないが、そうではない。作家が持つ方法論の固有性が作品の独自性をおのずから明らかにしてしまう点に、面白さがある。

だから、この特集を目の前にした時に、「アートか建築か」といった出口のない問いに自閉せずに、創作を語る言葉のただ中に身を浸し、1つひとつの言葉が身に迫ってくる速度をそのまま受け止めてみたい。アートは、建築は、なぜ語られるのだろうか。その次の瞬間に読者が語り出す言葉を、私たちは聞いてみたいと思う。

山崎泰寛/TEAM ROUNDABOUT

山崎泰寛「立ち上げること/受け入れること」

いろいろなものを一度に立ち上げること。
そしてそれらを丁寧に受け入れること。

本特集の濱野智史氏の論考を読んで、そのことの重要性に改めて気付く。
つくる者と頼む者の対応関係が持つ、ある種の自明性へと積極的に介入すること。
そして、その裂け目を覗き込む勇気を持つこと。

どうだろう。

伊東豊雄氏、中山英之氏、松川昌平氏ら「建築家」の言葉が、
それぞれに、いささか異なる輝きを放ちはじめはしないだろうか。

このように、ある表現に触発されて、別の表現が予期せぬ彩りを持つこと。
なるほど、この事自体はさして珍しくもなかろう。
しかし、不明な語を瞬時に検索したり、文章Aと文章Bの
比較を容易にするというインターフェイスゆえの世界が、
つまり、ウェブマガジン特有の方法論が加速させる思考が、
このサイトにログ化されている。

いろいろなものを一度に立ち上げること。
そしてそれらを丁寧に受け入れること。

「ART and ARCHITECTURE REVIEW」が、
今、あなたという読者とともに立ち上がった。

山崎泰寛/TEAM ROUNDABOUT

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