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#04 門・塔



塔とは本来、仏陀の墓(スツーパ)であり、それが日本に伝わる過程で、木造の高い建物になりました。寺院建築の中で最も目立つ塔は、視覚上の像徴でもあり、伝来以後、その姿と内部の変遷は各時代、各宗派の仏教観をも表すようになります。



塔の見方は、まずこの塔の種類と意味を知ることに始まり、塔全体の姿を楽しむことにあります。塔の姿は、一層目から最上層に向かって屋根の幅が小さくなる比率(逓減率)によって見え方が変わりますが、一般的に古い塔ほど逓減率は大きく、古い塔はどっしりと安定して見え、新しい塔はほっそりと高く見えます。そして、塔各層の軒下には屋根の出を支えるために複雑な組物(くみもの)があって、塔の姿に威厳と豊かさを加えています。また、鎌倉時代以後には建物の部材に装飾的な曲線が入り、室町時代以後にはその曲線が葉や花などの形になって塔を飾ります。


#03 殿屋(住居)



日本の住宅系建築を知るには、平安時代の貴族住宅に使われた[寝殿造]と、室町時代から桃山時代に形成された[書院造]、そして桃山時代から江戸初期に生まれた[数寄屋造]の三つの様式を理解するとわかりやすくなります。



平安時代の[寝殿造]は、現在一棟も残っていませんが、寝殿と呼ばれる南面する建物を中心に東西背後に対ノ屋という付属建物を建て並べて廊でつなぎ、寝殿前に儀式に使用する広い庭と、東西に中門廊という出入り口を設けていました。また、それぞれの建物は中心部分の母屋(身舎・もや)の周りに庇(ひさし)という空間を巡らし、円柱を使った建物の内部に間仕切りは殆どなく、板敷きの内部を几帳(きちょう)や屏風等の仮設間仕切りで仕切って使用していました。これが鎌倉、室町時代に簡略化されて中心部の建物(寝殿)と中門廊の一部だけが残り、内部も母屋、庇の構成が無くなって平面が幾つかの部屋に分割されて間仕切りが固定され、使い勝手と収まりが良いように間仕切りには引戸を入れ、柱は角柱になります。そして、部屋の大きさに応じて天井が張られ、板敷きの一部に置いて使用していた畳も部屋全体に敷き詰められるようになります。



またこれに、鎌倉末から室町時代に中国からの輸入品である唐物(からもの)を飾るための板や棚、文机(ふづくえ)が造り付けとされて床(押板)、棚、付書院などの座敷飾りが付けられて初期の[書院造](これを主殿造と呼ぶ研究者もいる)が形作られます。桃山時代になると豊臣秀吉が、室町将軍にならって格式、権威の表現として配下の大名などとの対面にこれを使い、座敷飾りのついた建物を建て並べ、庭に能舞台、茶室などを設けました。さらにそれを徳川政権が継承し、広めて書院造が確立します。桃山時代の豪華な書院造の座敷(広間・ひろまと呼ぶ)が造られたと同じ時期に、小間(こま)、小座敷(こざしき)、囲い(かこい)、数寄屋(すきや)と呼ばれる茶会専用の座敷、建物が一対で作られるようになります。小間とは大きさ四畳半以下の茶座敷で、堺の町衆であった村田珠光、武野紹鴎をへて千利休が土壁仕上げ、竹を使った草庵風(そうあんふう)茶室の新形式を大成します。利休の孫弟子にあたる小堀遠州は「綺麗さび」と呼ばれる、見るからに美しい表現の茶室を造り、利休が小間に凝縮した茶会のための空間を広間にも広げ、これが貴族に取り入れられて桂離宮などの[数寄屋造]の傑作が造られるようになります。


#02 社(神社)



神社の建築は古く、寺院建築が入る以前からあると考えられがちですが、最古の記録が残る伊勢神宮の正殿の形式[神明造]は7世紀後半の律令国家成立の頃、仏教に対する日本の神のための建築として採用されたものではないかと考えられています。伊勢神宮と対照的な出雲大社本殿の形式[大社造]も、地方神の代表として位置づけられた可能性が高いのです。



そして八世紀には、住吉、春日、加茂神社など、畿内の有力豪族が祭祀を行う神社各々独特な形の建築形式[住吉造、春日造、流造]が採用され、その中で最も簡単に作ることが出来、移動も容易な流造と春日造が全国的に広まります。地方も含めて、神を祀る社殿のおもだった形式は平安時代までには出揃い、それぞれの「使い方」に応じて儀式を行うための弊殿や拝殿が付設されます。続く鎌倉時代以後にはそれらを複合、変形した形式が創り出され、建築彫刻などの装飾的要素が加えられていきます。


#01 堂(寺院)



日本の寺院建築は、法興寺の建立に始まる飛鳥・奈良での仏教伽藍の建設から平安遷都に伴う天台、
真言密教の山岳伽藍、平安時代後半の天皇、貴族たちによる平安京での大伽藍建築、同時期の末法思想による阿弥陀堂の建立、鎌倉、室町武家政権に重用された禅宗の建築、鎌倉時代に次々と現れる浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など新仏教建築の構成と変遷します。



この中で日本は大陸から新しい建築の「造り方」(構造)と「使い方」(機能)を取り入れ、それらを部分的に組み合わせて「見せ方」を変えてきました。これが寺院建築の様式として捉えられているもので、平安末の東大寺焼失に伴って中国から導入された建築様式を[大仏様(天竺様)]と呼び、それ以前の「造り方」を[和様]と呼びます。また、鎌倉時代の渡来僧によって完全な形が日本に伝えられた禅宗建築の[禅宗様]は、「造り方」「使い方」とも旧来とは違う、特徴の際立った様式です。中世以後の寺院建築は、この三様式を組み合わせ、主に「使い方」と「見せ方」に主眼を置きながら展開します。


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