May
2011
特集:震災のあとで
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- 宮本佳明「「ゼンカイ」ハウ...
- Interview
- 島田陽 × dot architects「1995年以後の建築、2...
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- mosaki「震災以後、“アーキテクト...
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mosaki「震災以後、“アーキテクト”として」 1/3


3月11日の地震直後、白山通りへ避難した人々。この時点で電車は全て停止し、帰宅難民が発生することとなる。提供:mosaki
第1信:藤井>mosaki
2011年3月11日の東日本大震災から約1ヶ月が経ちました。
震災からしばらく経った今でも、震災被害や原発の是非を巡って様々な情報が錯綜しており、復興についても未だに手探りのまま意見が乱立している状態が続いています。このような混乱の渦中においては、それぞれが震災被害の現状を冷静に把握すると同時に、復興の方法についても考え方を共有しながら積極的に議論することが必要になってくるかと思います。
そこでまずは地震発生直後の各地の瞬間的な反応を振り返ってみることから話を始めたいと思います。mosakiのお二人は地震が起きてすぐ都内から浦安方面に行かれ実際の被害状況など見られたとのことですが、まずはその経緯と現地の様子についてお話をお聞かせください。
第1信:大西・田中/mosaki>藤井
あの瞬間(大西)
私は、白山の某出版社で打合せ中に今回の地震に合いました。徐々に強くなっていく揺れに、これはただごとではないという緊張感が一気にこみ上げてきました。揺れが収まる前に「避難しろ」との声に導かれ目の前の通りへ。即、打合せは中止。交通網はすぐに止まりましたので家へ戻るには歩くしかないか、と。しかし、私のように何となく歩き始めた都心の人々の多くは、この段階では、今、起こっていること、これから起こりうることを全く想像できていませんでした。私などは、次の日に予定していた仕事が敢行されるかもしれないと、その可能性を頭に描いていましたし、仕事が早く終わったんだからと、飲み屋で一杯ひっかけているサラリーマンを何人も見かけました。
とにかく歩くしかない。余震が襲う度に、ひとびとは立ち止まり、皆道路の手すりや信号機にしがみついていました。そして、自然と他人同士が会話を交わすようになっていました。神楽坂近辺の木密地域を抜けたときなどは、ヨボヨボのお年寄りたちは皆、玄関先に椅子を出して座り、向こうから街の若い衆が「みんな大丈夫か」と声をかけあっている。普段、見ることができない街に潜むコミュニティの風景が、どんどん路地に溢れていました。
白山から神楽坂を抜け、九段下へ差し掛かったとき、東京理科大学のロビーが黒山の人だかりになっているのが目に入りました。そこをかき分けるとテレビには津波による信じられない映像が。けど、この映像は録画らしい。この短い1時間程度の間に...。皆、歯を食いしばって凝視していました。当たり前の話ですが、twitter上に見えた「津波」の文字、テレビでみた映像、そして現実とのギャップ。足が震えていました。
振り向くと九段会館の前には十台以上の救急車と消防車が。さらに古本屋街は本棚がバタバタに倒れ、人形町のオフィスビルは窓ガラス全てにひびが入っている。結局、約12キロを4時間かけて歩き、自宅のマンションへたどりつきました。歩く度に、地震が引き起こした現実が、ひとつひとつ私という個人に押し寄せてきた。そういうと感覚をひしひしと感じながら、どこの階に住んでいるのかは知らない、はじめて会う住人のお婆ちゃんと一緒に非常階段を上りました。
あの瞬間(田中)
私は地震の瞬間、家にいました。江東区にある免震マンションの11階で、とても大きく揺れました。揺れている最中に、居場所の確認のため、大西に電話をかけました。すぐつながりました。その後はしばらくの間、どこにもつながらなくなりました。
大西が帰宅する道のりで起きているらしいこと(九段会館のことや、理科大などでロビーを一般開放していること)を逐一ツイッターに書きながら、帰宅を待ちました。
テレビをつけたら、津波の状況が生中継されていました。数千数万という人間が亡くなっていく様子を、ただひとりで見つめていました。ツイッターで映像の内容について書いたところ、ちょうど今、その映像の地域にいるんですけど、一体どんなことが放送されているんですか?と宮城大学の方に質問され、青ざめました。画面の写真をアップして、とにかく早く逃げてと返信しました。その方の無事が確認できるまでの一日半くらいは、本当につらかったです。
あの日の夜
夜になると、友人がひとり、大西の妹、朝方には出張先の甲府から車で戻ってきた大西の父親が我々の家に訪れました。友人は地下鉄が運行を始めてすぐ帰りました。窓から橋を見渡すと、夜通し、大勢の人が途切れることなく歩いていました。ありったけのお米を炊いて、おにぎりをたくさんこしらえました。
浦安へ
朝になって、妹、父親、そして大西と私の4人で、大西の実家のある新浦安に向かいました。その過程では特に被害は見かけなかったのですが、浦安駅から新浦安へ向かっていて国道357号線を越えると、その先は真っ白な別世界でした。新浦安一体は至る所でアスファルトが裂け、泥が噴き出し、いわゆる被災地の風景になっていました。50cm以上の段差が街のいたるところに発生しているのです。今でこそ、浦安、浦安と報道されますが、当時は都内の人もほとんど知られていなかった。しかも道路を一本隔てただけで、液状化被害の明暗がクッキリ分かれていたことに、驚かされました。開発の新旧の問題でもなさそうでした。液状化しそうかどうかということは、普段見ただけでは全く判断できません。
大西の母親は、避難所(近所の小学校の体育館)で水の配給の列に並んでいました。水を入れるポリバッグも、その場で配られたようでした。他に、炊き出しやカンパンの配給なども行われていました。避難所というものができあがる速さに驚きました。すでに水を求めるその列には、殺伐とした空気が漂っていました。街の中でも、地元の人々が黙々と土砂をスコップで掻き出していました。時々、地域の放送で、スコップやボランティア人員を求める内容が聞こえてきました。個人も街単位としても、初動の速さには特筆すべきものがあったと思います。
家族みんなで水を持って、実家のあるマンションの12階に向かいました。マンションは外廊下の手すりがとれるなど、危険な被害もありました。屋内では食器棚や本棚は倒れて、中身が散乱していました。水もガスも止まっており、開通まで10日間くらいかかっていました。辛うじて電気だけ通っていたので、避難所から持ってきた水を電気ケトルに入れて、お湯を沸かして一服しました。母親は放心状態で、その後しばらく体調不良に悩まされていました。私たちはとりいそぎ簡単な片付けをして、持ってきたおにぎりなどの食料を置いて、帰りました。帰りの駅は、ディズニーランドで夜を明かした観光客でごったがえしていました。
東京からわずか10キロの別世界を、このような形で体験することとなったわけです。以上が、われわれの地震から24時間の出来事です。

3月12日の早朝、新浦安へ入り、最初に目に飛び込んできたものは、めくれ上がったアスファルト。液状化の瞬間の凄まじさを物語る。提供:mosaki
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