February
2010
特集「設計プロセス論の現在」
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濱野智史「藤村龍至の『超線形設計プロセス』の限界とその突破」


藤村龍至の「超線形設計プロセス」について
今回、『ART and ARCHITECTURE REVIEW』の創設にあたって筆者が編集部より依頼されたテーマは、「ゼロ年代を総括するべく、設計プロセスの現在について論じてほしい」というものだ。しかし、紙幅も限られた——Webマガジンなので物理的な限界は無いに等しいとはいえ——本稿では、十分に議論を尽くすことは困難だ。
そこで以下では、2010年2月6日に開催予定の「LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010」に向けた予備的考察として本稿を位置付け、論点をひとつに絞りたいと思う。それは建築家・藤村龍至の提唱する「超線形設計プロセス」(*1)の持つ限界と、その突破口についてである。
それはどういうことか。まず、藤村の方法論を簡単におさらいしておこう(藤村の議論に馴染みの深い読者であれば、本節は読み飛ばしてもらって構わない)。そもそもの大前提として、建築は非常に巨大で複雑な人工物であり、そこにはさまざまな人々の意志が介在する。特に建築家(アーキテクト)と施主(クライアント)のあいだには、目指すぺき建築物の「提案」と、それに対する「承諾」というコミュニケーション・プロセスが展開することになる。ミーティングでデザイナー側はクライアント側からの要望を聞き取り、それを持ち帰った上で複数の案をつくり、再びミーティングの場で提示する。その中からクライアントの意にかなったモデルが選別され、いくつかの追加の要望やコメントを持ち帰り、再びデザイナーはモデルを洗練させていく。……こうしたキャッチボール的なコミュニケーション・プロセスは、「建築」に限らずいわゆる「ものづくり」の現場であれば必ず存在していることだろう。
これに対して藤村の「超線形設計プロセス」の特徴は、そのコミュニケーションを文字通り「単線化」するところにある。藤村の場合、クライアントに提出するモデル(模型)は必ず一つに絞られ、提案が複数に「枝分かれ」することはない。なぜならクライアント側が出した要望は、必ずそのモデルの中に反映されているからだ。ただしクライアントからの要望は、常にごく少数のみをモデルに反映していくというルールも同時に課される。なぜなら、建築のような複雑な人工物の場合、膨大な要件を一気に満たすような「飛躍的な案」は生まれにくいからだ。それよりも藤村は漸進的にモデルを進化させていく——藤村はその進化的な設計プロセスを、生命の「孵化過程」に喩えている——ことを選ぶ。また、藤村の設計方法論がユニークなのは、「過去の案に後戻りすること」も禁じている点にある。これはいわゆるクライアントからの「ちゃぶ台返し」を封じるためだ。常にすでにクライアントからの要望はモデル案に反映され解決済みなのだから、「やっぱり前の案のほうがいい」という後戻りをするのはなしよ、というわけだ。

図1:藤村の設計プロセス表
枝分かれしない。ジャンプしない。後戻りしない。こうしたルールを自らに課す藤村の設計方法論——というよりも、それは「合意形成に至るためのコミュニケーションの規約(プロトコル)」と呼んだほうがより実態に即しているかもしれない——は、大規模設計事務所の「下請け」に従属しつつある建築家にとって、有効な武器になると藤村はいう。なぜならそれは、唯々諾々とクライアントの要望に従うだけの下請け的方法論に比べ、スピーディかつイニシアチブを有した設計を進めることが可能であり、あるいはただひたすらに「神が降りてくる」のを待つクリエイター的方法論に比べて、より顧客の要件を十二分に盛り込んだ「濃密」な完成物となるからだ。
かねてから筆者も指摘してきたように(*2)、こうした藤村の設計プロセス論は、近年ソフトウェア・プログラミングの世界で注目されている「アジャイル開発」によく似ている。「アジャイル開発」が登場してきた背景には、「ウォータフォール型」と呼ばれる大規模ITシステムの設計プロセスに対する批判的な問題意識があり、これは藤村とも共通する。さらにいえば、こうした「大規模な資本なり組織の論理に、小規模なアーティストなりデザイナーなり作家なりが従属してしまう」という構図は、現代社会におけるあらゆるジャンルや領域にとって共通することはいうまでもない。それゆえ筆者は、藤村の方法論の普遍性にかねてから注目してきた。
藤村の方法論の限界とは何か?——藤村の方法論を都市計画に適用するために
さて、前置きが長くなってしまった。本稿の主題は、こうした藤村の方法論の重要性を踏まえたうえで、その限界と突破口を見定めていく点にある。
その限界とは一体何か。それは「クライアントというコミュニケーション相手がいなければ、『超線形設計プロセス』は実行できない」というものである。あまりにも自明なことだが、そもそも合意形成に至る相手がいなければ、超線形的であろうと何だろうと、コミュニケーションそれ自体が生じることはないからだ。
あまりにも単純すぎる指摘なので、拍子抜けに思われる方もいるかもしれない。しかし、これは単なる揚げ足取りでもツッコミでもない。なぜなら筆者は、「藤村的方法論は、建築の設計のみならず、都市設計/都市計画のような規模にまで拡張することができるのか」という関心を持っているからだ。それはどういうことかといえば——
・いま私たちが直面しているグローバル社会の諸問題——南北問題や地球環境問題——は、究極的には市場・都市・社会の「再発明」ないしは「再設計」とでも呼ぶべき解決アプローチを必要としている。
・市場なら「自生的秩序」(ハイエク)、都市なら「セミラティス」(アレグザンダー)、社会なら「オートポイエティック・システム」(ルーマン)と様々な呼び方はあるが、それらの特徴はひとことでいえば「自生的に設計された秩序」という点にある。つまり、どれだけ人間の理性なり創造性なりを発揮したとしても、市場や都市や社会といった複雑な秩序なりシステムなりを、いっきょとびに設計するのは不可能である(★3)。
・そのとき、藤村的な方法論は一見すると有望に思われる。——なぜならそれは、「クライアントとアーキテクトの間のコミュニケーション・プロセスをあえて「超線形的」に設計することで、複雑な人工物の漸進的な進化を促すアプローチ」だからだ。
・だがしかし、藤村の「超線形設計プロセス」は都市設計には適用不可能である。なぜならそこには、原理的な意味でクライアントもデザイナーもいない——そこには従来的な意味での「都市計画」を担う役人や政治家は存在しているが、彼/彼女らは適切に市民の声を代表しているとはいいがたい——「自生的な」秩序なのだから。
——ということになる。ごく簡単に要約すれば、《藤村の方法論はクライアントという具体的なコミュニケーションの相手がいなければ発動しえず、それゆえ都市設計のような巨大なスケールの設計にはそのままでは適用できない》ということになる。
もちろん、以上の議論は極めて乱暴なものでしかない。あるいは、そもそも建築の一手法をそのまま都市計画にあてはめようとすること自体に無理がある(=スケール・ミステイクでしかない)と思われるかもしれない。しかし、筆者が展開した以上の議論は、当然ながら藤村その人を批判するために行われているわけではなく、藤村に代表されるような設計方法論の原理的な可能性を見定めるためにある。
本稿では藤村の名前を挙げてきたが、たとえばそこに「アジャイル開発」や「オープンソース」の名前を代入してもよい。なぜならそれらは、「コミュニケーション・プロセスのイノベーションを起こすことで、従来不可能だった人工物の設計が実現できる」という認識——言い換えれば「経営学」ないしは「組織論」的な認識——において共通しているからだ(ちなみに、河出書房新社から今年刊行予定の『ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究』の設計研では、主にこの点をめぐって議論が繰り広げられた)。
いま私たちは、OSのようなソフトウェアや、建築のようなハードウェアであれば、設計方法論としてのコミュニケーション・プロセスのイノベーションが適用できることを認識しつつある。だとすれば今後私たちが取り組むべきなのは、それを他の諸制度や諸人工物の「再設計」なり「再発明」に応用していく試みであろう。しかし、そのときクリティカルな問題になるのは、「そもそもコミュニケーションの相手が存在しない場合、どうすればよいのか」という、あまりにも単純だが、しかしそれゆえに原理的な限界なのである。
「都市計画2.0」に向けた2つの補助線:東浩紀の「一般意志2.0」論と磯崎新の「海市」プロジェクト
すでに規定の文字数も大幅に超過している。最後に本稿では、今後の補助線となるべき二つの論考を挙げて、論を締めくくることにしたい。
まず第一に、昨年末から東浩紀を中心に展開されている、「民主主義2.0」をめぐる議論である(現在、東による論考「一般意志2.0」が講談社のPR誌『本』で連載中)。ここでは詳細な紹介は省くが、東はルソーの『社会契約論』における「一般意志」という《理念的概念》を、たとえばGoogleをはじめとする情報アルゴリズムのような《数理的機構》として読み替えることで、情報社会における新たな「一般意志」の抽出が可能ではないかと論じている。その中心にあるのは、近代社会のアポリアであった「代理-表象(代議制)」の問題を突破することはできるのかという問いである。そして筆者がその議論を補助線としてみたいのは、次のような考えがあるからだ。
先にも触れたように、藤村的方法論の限界は「クライアントがいなければ成立しない」という点にあった。しかし、だとするならば——「コロンブスの卵」ではないが——こう話を転回させてみることもできるのではないか:「クライアントさえいれば、藤村的方法論は実行できる」と。すなわち筆者がここで考えているのは、従来の都市計画における政治家や官僚というクライアントに代わって、情報技術の力によって可能になるかもしれない「一般意志2.0」の存在を、いかにして進化的設計プロセスのクライアントとして——それは「人」の形を取っているかどうかはさておくとしても——立てうるかという問題なのだ(ルソーの論じる「一般意志」と「統治機構」の関係は、そのように読み替えることも可能だろう)。
もちろん、これはかなりの暴論でしかない。しかしそれでも一考に値すると筆者は考えている。これまで私たちは、問題解決の主体は「デザイナー」「クリエイター」「アーキテクト」であると当然のように考えてきたし、こと民主主義の場合であれば、政治家という「エージェント(代理人)」や官僚という「サーヴァント(公僕)」にこそが問題があるとみなしてきた。しかし、それが実は「クライアント」の側の問題として解決できるのだとしたら? いま私たちに必要なのは、こうした思考の転回なのかもしれないのである。
*
第二の補助線。それは磯崎新が1997年に展開した都市計画プロジェクト「海市——もうひとつのユートピア」である。そのプロジェクトの成果は1997年にNTTインターコミュニケーション・センターで公開され(website)、その全容は1998年にNTT出版から刊行された同名の書籍に収められている。500頁を超える同書の物量にはいまから見ても圧倒されるが、本書のカバーにその主旨が端的に要約されているので、以下に引用しておこう:
「従来の都市計画のあり方を超えて、インターネットをはじめとしたオープンで参加型の新しい都市の実験を試みた同展覧会は、建築のジャンルを超え大きな反響を呼んだ。電子ネットワークでつながれたわれわれは、現実と仮想のふたつの都市空間にいかに生きうるのだろうか……」
「「目標=テロス」を消去して、自動生成にまかせよ!」
「中心を無化して、網目で埋めよ!」
「「計画」しない都市の生成は可能か?」

図2:『海市——もうひとつのユートピア』(NTT出版、1998年)
先ほどの言葉を使っていいかえれば、都市という「自生的秩序」を、アーキテクトがいっきょとびに《計画》するのではなく、さまざまな主体が参加するコミュニケーション・プロセスを通じて《生成》すること。これが同プロジェクトの狙いであり、そのためのコミュニケーション・プロセスとして以下の3つの企画が用意されていた: i) 著名な建築家たちに土台となるプロトタイプ案を改変してもらう「シグネチャーズ」、ii) インターネットからのコメントを踏まえながら自動生成アルゴリズムで都市計画をシミュレートする「インターネット」、iii) 12人のゲストクリエイターが1週間ごとに「連歌」の形式で——ひとつ前の計画案を土台にして変更・修正を連鎖的に加えていく形で——それぞれのプランを作成していく「ヴィジターズ」。そして同プロジェクトにおける磯崎の役割は、都市計画そのものを手掛けるアーキテクトではなく、こうしたコミュニケーション・プロセスの側を設計するアーキテクトたらんとするものだったのである。

図3:ICCで行われた「海市」展の様子
(出典:ICCウェブサイト)
このように、情報社会における都市計画の可能性を模索した同プロジェクトの先駆性は、いま現在から見ても非常に意義深いものだ。しかしその一方で、同プロジェクトの成果については、(磯崎自身をはじめとする)多くの人々から否定的に評価されている。特にその中でも、同書の中で最も多くの頁数が割かれている「ヴィジターズ」は、非常に錯綜した展開となった。そのプロセスが進むさなかでは、「なぜヴィジターズは失敗したのか」をめぐって、複数の論者たちが自己分析を繰り広げるというメタ的展開に至っているのだが、そこでの結論を端的に要約すれば、「ヴィジターズたちが『磯崎新』という父に過剰なまでに転移してしまったからだ」というものになる(ちなみに同書に収められた論考の中では、東浩紀の「磯崎氏、ローマに足を踏み入れる」において本点に関する最も明快な分析が行われている)。
そもそも「ヴィジターズ」は、「連歌」の比喩で説明されていたように、時間差をはらんだ複数の制作プロセスをいわば「圧縮的」に連鎖させることを通じて、都市の「セミラティス」的な歴史の蓄積(都市のコンテクストの多層性)を仮想的に生成しようとする試みだった。しかし「ヴィジターズ」のクリエイターたちは、マスタープランを描いた磯崎新の欲望が果たしてどこにあるのかを探ろうとし、そして磯崎の欲望を巧みに裏切ろうとすることで、ますます父への転移を深めてしまった結果、「各々のプランを連鎖させる」という本来の目的は等閑になってしまった。すなわち筆者なりにいいかえれば、超越的な主体であるところの磯崎への「欲望の三角形」ないしは「オイディプス三角形」の回路が前面化した結果、本来目的とされていた「1→2→3…」と連歌的≒単線的な設計プロセスの連鎖・蓄積が実現されなかった。これが「ヴィジターズ」錯綜の原因だったというのである。
ここで筆者が今後のための補助線として注目したいのは、そのコミュニケーション・プロセスの形式的特徴(すなわち「ネットワーク構造」)にある。都市を生成的に設計するのに最適なのは、「連歌≒単線的プロセス」なのか? それとも藤村の提唱する「超線形的プロセス」なのか? あるいは、「三角形」的な再帰的ループの構造は、都市計画の生成にとって本当に障害/不要なのか? もしくは、Twitterのアーキテクチャが実現している「選択同期」的なコミュニケーション・プロセスや、ニコニコ動画上に見られる「N次創作」的なネットワーク構造こそが適しているのではないか?
——こうしたコミュニケーション・プロセスの形式性=ネットワーク構造に着目し、情報技術(アーキテクチャ)が可能にする新たなコミュニケーション形式を取り入れていくことで、かつてアレグザンダーや磯崎らが取り組んだ都市計画の試みを、少しでも先に進めた「都市計画2.0」にアップデートできるのではないか。おそらくそれは、「一般意志」をどう立ち上げるのかという先の問いとも無縁ではないはずだ。いま、筆者はそのように考えている。
補遺
以上のように記したものの、筆者はこうした「形式化」のアプローチにも「限界」があることを承知している。というのも、かつて柄谷行人が『内省と遡行』から『探求I』に至る(そして1995年に英語版として出版され、後に定本集2に訳出された『隠喩としての建築』にまとめられた)一連の考察の中で、「形式化からは他者が抜け落ちてしまう(外部に開かれておらず、内部に閉じている)」という決定的な批判を行っているからだ。どれだけ新たなコミュニケーション・プロセスの形式的/構造的特徴を見出し、それを他に適用してみせたとしても、そこからは他者性(歴史性)が抜け落ちてしまう。これはむしろ具体的な設計の場面を想定したとき、クリティカルな指摘となる。というのも、仮に「一般意志2.0」を発現させ、新たな都市なり社会なりを生成的設計することができたとしても、そこからはこぼれてしまう他者が——たとえば地球環境問題であれば「未来の他者」のような存在が——必ず出てきてしまうからだ。それを果たして私たちは「一般意志」と呼びうるのだろうか?
いまの筆者には、「一般意志」の他者論的問題とでもいうべき本点について、原理的に答えるだけの準備も力量もない。ただここで筆者が志向したいのは、こうした無限後退的に立ち現れてしまう「無限の他者」の存在を、どれだけ具体的な形で漸進的に「構成」できるのか、という試みである。柄谷/カントの言葉をもじれば、それは「統制的他者」をどれだけ「構成的他者」に近づけることができるのか。これが筆者のさしあたっての関心なのである。
*1:各所で藤村は自身の「超線形設計プロセス」についての議論を展開しているが、さしあたっては藤村龍至「グーグル的建築家像をめざして」(東浩紀+北田暁大編『思想地図 Vol.3』NHK出版、2008年、所収)を参照のこと。
*2:濱野智史+藤村龍至「設計/デザインを考える」(東浩紀+宇野常寛編『Final Critical Ride』2009年、所収)を参照のこと。
*3:本文では簡潔に記したが、詳細な考察については濱野智史「自己組織化は設計可能か──スティグマジーの可能性 」(『10+1 Website』2009年)を参照のこと。
濱野智史 1980年千葉県生まれ。慶応義塾大学大学院、国際大学GLOCOM研究員を経て、日本技芸リサーチャー。