February 2012

山崎泰寛 「場所性という場」の更新

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現場百篇という言葉がある。TVドラマで、事件が起こった現場に何度も詣でて、解決の手がかりを得ようという格言のようなものとして聞いた。何度行っても新鮮だと感じるタイプの取材なのか、お百度参り的にただ繰り返す習慣なのか、言うまでもなくその違いはとても大きい。この特集に集められた発言の数々は、一体どんな場所を更新しようとしているのだろうか?

TNAの武井氏、鍋島氏は、住宅地も、別荘地も、スイスも、パナマも、同じような言葉遣いで語っている。「ちょっとその辺」に親しみがあり、普段足を運ばない土地を憧れを込めて話すようなことはしない。先入観を排して「ニュートラルでいたい」という個別の土地との関わり方が、言葉の端々に行き渡っている。ローカルな場所「を」どう語るのかが問われているというよりも、ローカルな場所「で」どう語るのかという、ある種の方法がそこに示されているのである。

長谷川豪氏もそうだ。語り口が指向性を持っており、それが方法とぴったり寄り添っている。長谷川氏の語り口を通じて、余白という言葉はもともと「小ささ」を内包している面があるのだなと思う。余白は、キャンバスのような広さもなければ、ほかの空間から自立した(というかほかの空間を排除し、隔絶する)範囲も持っていない。余白はあくまでも他の空間との関係で生まれる大きさ(小ささ)なのである。その関係をスタディの反復によってたぐり寄せ、編み上げていくプロセスが、生まれる建築を強くする。長谷川氏の語り口は、そういった「スタディという場所」が存在することを、あるいは、「スタディが場所をつくる」ことを、端的な事実として伝えてくれる。

関西の建築家4名を全方位から捉え、語ろうとする態度。 歴史の一コマを見出だし、また、その場を歴史として語ること。固有名が、個人を指し示すのではなく、堆積し、ぬぐい去りがたい時間とともに、ただ、あること。ただの地面が、歴史を帯び、「土地」という場所になる。 倉方俊輔氏のレビューから伝わってくるのは、私たちそれぞれが聴衆としてその場を目撃する(した)ことの重みであると私は思う。

そして最後に収録された 青木弘司氏と伊藤暁氏のメール対談は、そのような場所を語る言葉が、倉方氏が「関西性」というような意味での「東京性」を帯びて発見されるまでの過程を記している。そう言えるかもしれない。1月27日、19時30分から始まるその企ては、倉方氏が生もうとする場所のように働くのだろうか? そして、私たちは目撃者となることができるだろうか? どのような言葉が紡がれ、残されるのか。ぜひ行く末に注目したいと思う。

山崎泰寛