#03 殿屋(住居)

日本の住宅系建築を知るには、平安時代の貴族住宅に使われた[寝殿造]と、室町時代から桃山時代に形成された[書院造]、そして桃山時代から江戸初期に生まれた[数寄屋造]の三つの様式を理解するとわかりやすくなります。

平安時代の[寝殿造]は、現在一棟も残っていませんが、寝殿と呼ばれる南面する建物を中心に東西背後に対ノ屋という付属建物を建て並べて廊でつなぎ、寝殿前に儀式に使用する広い庭と、東西に中門廊という出入り口を設けていました。また、それぞれの建物は中心部分の母屋(身舎・もや)の周りに庇(ひさし)という空間を巡らし、円柱を使った建物の内部に間仕切りは殆どなく、板敷きの内部を几帳(きちょう)や屏風等の仮設間仕切りで仕切って使用していました。これが鎌倉、室町時代に簡略化されて中心部の建物(寝殿)と中門廊の一部だけが残り、内部も母屋、庇の構成が無くなって平面が幾つかの部屋に分割されて間仕切りが固定され、使い勝手と収まりが良いように間仕切りには引戸を入れ、柱は角柱になります。そして、部屋の大きさに応じて天井が張られ、板敷きの一部に置いて使用していた畳も部屋全体に敷き詰められるようになります。

またこれに、鎌倉末から室町時代に中国からの輸入品である唐物(からもの)を飾るための板や棚、文机(ふづくえ)が造り付けとされて床(押板)、棚、付書院などの座敷飾りが付けられて初期の[書院造](これを主殿造と呼ぶ研究者もいる)が形作られます。桃山時代になると豊臣秀吉が、室町将軍にならって格式、権威の表現として配下の大名などとの対面にこれを使い、座敷飾りのついた建物を建て並べ、庭に能舞台、茶室などを設けました。さらにそれを徳川政権が継承し、広めて書院造が確立します。桃山時代の豪華な書院造の座敷(広間・ひろまと呼ぶ)が造られたと同じ時期に、小間(こま)、小座敷(こざしき)、囲い(かこい)、数寄屋(すきや)と呼ばれる茶会専用の座敷、建物が一対で作られるようになります。小間とは大きさ四畳半以下の茶座敷で、堺の町衆であった村田珠光、武野紹鴎をへて千利休が土壁仕上げ、竹を使った草庵風(そうあんふう)茶室の新形式を大成します。利休の孫弟子にあたる小堀遠州は「綺麗さび」と呼ばれる、見るからに美しい表現の茶室を造り、利休が小間に凝縮した茶会のための空間を広間にも広げ、これが貴族に取り入れられて桂離宮などの[数寄屋造]の傑作が造られるようになります。