February 2010

藤村龍至「なぜ今、設計プロセス論なのか」

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画像提供: 中山英之建築設計事務所

私たちは何をどう捉え、形にしているのか。1960年代に隆盛を極めた設計プロセス論を、WEB技術が日常生活に実装されつつある2010年の今、見直す機運が高まっている。

2010年代の建築・都市の行方を考えるために、2000年代から少しだけ延長して、1995年まで遡って流れを振り返ると、よりはっきりと見えてくるコンテクストがあるように思う。「1995年」とは、阪神淡路大震災やオウム真理教事件により既存の物理的な都市インフラの脆弱性が明らかになり、windows95が発売され、「インターネット元年」と呼ばれて新たな情報インフラの可能性が顕在化した年である。

この頃建築界ではANY会議を中心として、コンピュータの登場が建築のあり方をどう変えるのかが盛んに議論された。しかしそれらの議論は結局のところ、コンピュータ言語をドライブさせて複雑な形態を生成させるか、というフォルマリスムに留まっていた。あれから15年を経て、設計環境は情報化され、構造解析や温度解析など、様々な解析が発達し、入力側の素材は増えた。しかしそれらを統合する側のデザイン論は、いまだに提出されていない。現在のところアルゴリズミック・デザインと標榜されている方法論も、結局のところ二次元的なグラフィック・パタンや奇抜な形態の生成など、表層的な操作に留まっているに過ぎない。

情報社会論の濱野智史氏はそれに対し興味深い指摘をしている。よく知られているようにグーグルの検索エンジンは、「人間はいいと思ったページにリンクを貼る」という習性を取り込み、リンクされたページに関するログを集計してランキングするというシステムを導入している。1990年代以降実際の社会で実装されたWEBの技術は、当時に議論されていたようなAI(人工知能)的な意味で高度で複雑な計算をするアルゴリズムを実装する、というよりも、単純で形式的なルールをユーザーに対して設定することで、あたかも「人間のほうをアルゴリズミックに動かしている」ことにその特異性があるという。

現在、情報社会論の分野では、集合知や知の構造化、あるいは情報技術を用いた自立分散協調的な意思決定システムなどが盛んに議論されている。我々からすれば、バラバラな意思を統一しひとつのものを作り上げる技術にかけては、建築ほどすぐれた構築性を持つ領域はない。しかも、具体的な物質によって組み立てられる建築はもともとメディアとしての機能性が高いので、空間を介した強力なコミュニケーションツールとして用いられてきた伝統もある。

そのひとつの側面は、環境を利用して人々のふるまいを無意識のうちにコントロールする新たな権力の形態=「アーキテクチャ」として対象化されつつあり、高度に技術への依存が進んだ現代社会においてはその拡大に対して慎重になる必要はあるものの、コミュニティが崩壊した地域社会にせよ、競争力を保持しようとする企業にせよ、失われたコミュニケーションを回復し、アイデンティティを再構築するために、建築という領域が培ってきた構築的な思考は再評価に値するのではないだろうか。

我々建築家は今こそ、バブル前後を通じて無駄なハコモノを量産してきたという過去のロールイメージから脱皮し、人々のコミュニケーションのベースであるアーキテクチャを設計する専門職という、自らの職能を見つめ直すべきである。特に、1960年代に盛んに議論され、その後しばらく議論されることのなかった設計プロセス論は、ウェブを始めとする情報技術の浸透によって新たな想像力が明らかになった今日のコンテクストにおいてこそ、新たな役割を発見しつつある。10年代の始まりに見えてきたのは、そんな風景である。

藤村龍至/TEAM ROUNDABOUT