茶会の本意

奈良の記 1
茶会の本意 -平成26年10月19日 慈光院開山ならびに石州毎歳忌法要茶会-

法隆寺、薬師寺、東大寺、興福寺と飛鳥・奈良創建の寺院が並ぶ奈良に、慈光院という優れた数寄屋造の建築があることを知る人はそう多くないであろう。
慈光院は四代将軍徳川家綱の茶道指南役をつとめた片桐石州(貞昌1605?1673)が父の菩提を弔うため寛永3年(1663)、大和小泉に作った禅宗寺院で、借景で高名な書院とそれに付属する茶室(高林庵)は、国の重要文化財に指定されている。庭も名勝で、観音堂をいただく築山斜面のツツジなど、低木を刈り込んだ大刈込ほか刈り込まれた庭木で全体が構成され、書院“上の間”の東側の柱を何本か抜いて絵巻物の画面のように横長の空間を構成し、そこに遠くの山の稜線を絵画のように入れて借景のデザインを組み立てている。その刈込の庭から低い竹の垣根を隔てて茶室への露地がのび、小さな躙口をくぐると、二畳と床の前に台目の大きさ(長さが普通の畳の四分の三)の茶立畳が付けられた亭主床形式の茶室内部に至る。茶立畳には中柱(台目柱)という独立する柱が立てられ、その姿は下からまっすぐに伸びて最後にキュッと曲がった特異な形をしており、窓は台目畳東側に道具を照らす風炉先窓(下地窓)が切られて明障子からの美しい透過光を入れ、二畳部分には壁いっぱいに切られた竹連子の窓がわずかに高さを違えて穿たれ、端正で力強い造形を創り出す。

 書院

通常、この建築に拝観で伺うと、書院で薄茶をいただきながら美しい借景を眺め、小さな空間に品格を宿す茶室を拝見し、感心して帰ることになる。しかし、この建築は書院東側小壁に慈光院八景の漢詩を書いた額が挙げられているように日々座禅修行を行う禅宗の建物であるとともに、茶室高林庵と書院建物に水屋が付く茶道石州流の祖・片桐石州が茶の空間として設えた建物でもある。
景の中で座禅し、境致に至る修行については語る資格がないが、この書院で行われた開山ならびに石州公忌の茶会については忘れられない思い出がある。
4年前、御住職から重要文化財の書院で開山忌の茶会を開くというお知らせを頂戴し、格式の高いお茶会は出来るだけ失礼していたのだが、建物の使われ方が見たくて端に加えていただいた。開山忌の茶会はいつも盛況で百人近くの方がいらっしゃるため主室である床の間、付書院が付いた上の間(13畳)と、二つに分かたれた次の間(中の間8畳と6畳)との境の襖をすべてはずして、床前から座敷を取り囲むように客は一列に座り、濃茶をいただく形式だった。茶は足利将軍以来正式な茶会に用いる台子の棚を置いて点てられた。その棚は三つの部屋の境に立つ柱の横に据えられていたが、その柱の姿に胸を突かれた。

 4柱と台子

普通我々は、慈光院の建物と庭を拝見するとき、玄関から入り書院中の間に至ると上の間を通して見る借景に心を奪われる。そして、大刈込庭の清らかさに目が移り、座ってお茶をいただき、落ち着いて上の間の床の間、付書院をゆっくりと見る。その視線は常に外に向かい茶会で台子棚が据えられた部屋境の柱に目が行くことは無い。ところが、普段目立たない柱が、襖をすべて取り払い台子の棚を添わせることで、小間茶室に立てられた中柱のように存在感を持ち、象徴的に輝いたのである。古図(安政3年)によると殿様がこの建物を使う場合は、(殿様は)を省く上の間に借景を背に座り、院主他は中の間の反対側に座って、六畳の間は家老他の休息所に使われ、台子棚は水屋に置かれているので、石州の時代以来書院で茶会が行われたかどうかはわからない。しかし、この建物は、柱が、建物が、その使い方によって姿を変え、静かに控え、あるいは存在を輝かせるのは明らかで、石州の造形の核心はここにあったはずである。この茶会でその奥深さを知り、己の不明を恥じた。

今年は、久しぶりにこの開山忌の茶会に伺い、また一つ茶室にとって最も大切なものを教えられた。
今年の茶会は、本堂での献茶の後、濃茶、薄茶の席とも重文の書院ではなく、新しく作られた新書院で行われた。正客の席を定めず、ぐるりと座る客の中央に風炉を据え、アクリルの長板、建築家フランク・ロイド・ライトの建築窓装飾のパターンを写して作った柄杓置の斬新な道具に、古い釜、茶碗を取り合わせ、高校一年生と聞く女性が堂々と茶を点てた濃茶の席も新鮮だったが、心を突かれたのは御住職の御母堂が席主をされた薄茶の席だった。茶席入りを待つ寄付には、竹の下端を斜めに切った石州公自作の「乱切」と名付けられた花入が掛けられていた。その花入れは竹の下端を切ったのではなく、おそらく生きた竹を一刀のもとに切り、それを逆さにして節を抜いて花入れにしたもので、竹を逆さにしたために上に行くほど太くなり節が荒々しくなる花入れの、その切口はあまりにも鋭く、利休没後約半世紀以上を過ぎ天下泰平を迎えた時代でも、武士としての石州の鍛練と心持が示されているようで見事だった。

 花入れ「乱切」

招かれて席に入ると、広間は低い椅子を置いた立礼の形式で、茶立畳一畳だけが、畳座敷での茶会と視線位置が違わないように高さを上げて置かれ、畳脇には同じ高さの中板が添えられていた。床の間には狩野探幽筆のたっぷりと幅のある三幅対の掛軸がかけられ、主茶碗と茶入は石州公手びねりの焼物、替茶碗は石州公所持の唐物茶碗、茶杓は開山・玉舟和尚自削のものだった。
この道具について席主は「大切なものでも蔵の奥にしまい込んでいては道具が生きない。」「掛軸は、ある日、玉舟和尚が大徳寺の寸少庵に立ち寄ったとき、江月和尚(大徳寺住持156世)と一緒になった。たまたまそこに絵師の探幽が来ていて、またそこに小堀遠州が訪ねてきた。遠州は珍しく四人が揃ったのだから、絵を描くよう探幽を促し、その場で探幽が江月、玉舟、遠州を仏になぞらえて三幅の絵を描き、江月、玉舟が讃を添え、それを遠州が前田公から拝領した裂を使って表装した。床の間の幅に対して三幅を掛けるのは少々狭いが掛けてみました。」「道具は立礼席のため拝見に廻しませんが、茶立畳脇の中板に置きますのでそれぞれ持って御覧になって、石州公の“手”を感じてください。」と話された。茶席には十数人が入ったため、正客、次客には石州公自作の茶碗で茶が点てられ三客以降は陰点てで茶が出されたが、その茶は、紋付袴の給仕が各々趣のある茶碗を一人一椀ずつ袱紗に乗せて運び、客に手渡す趣向であった。お茶をいただき、道具拝見で石州公自作の茶碗を手にした時、石州公の形に関する感覚ばかりでなく、手の大きさ、肌触り、茶に対する思いがすっと伝わって来るように思えた。
そして、席主が言ったもう一つの「石州公は常に茶を若くしなければならない。新しい試みを続けなければならないと言っていました。」という言葉がよみがえった。利休は「四十より五十まで十年の間は、師と西と東を違えてする也。・・・茶の湯を若くする也。」と言ったと弟子の山上宗二は書いているが、利休の追求した「侘び、さびの茶」を半世紀過ぎても「茶の湯さびたるは吉(よし)、さばしたるは悪し。」(松平庄九郎宛書簡)と墨守した石州は、一方で太平の世を迎えてもなお、生きた茶の湯を伝えた茶人で、この薄茶の席は、新しい創造で心から客をもてなし、縁をつなぎ、己を鍛える、その茶会の本意を見る思いがした。
茶会が終わり、御住職に、御母堂の茶会は戦国秀吉時代に多くの武将を育てた大政所(ねね)の茶会のようでしたとお話しすると、カカと大笑された。玄関を出て、日常の世界へ一歩踏み出した時、薄茶席の床の間に肩を寄せて掛けられていた三幅対の仏たちが、「この茶会は私たちのように大勢の皆さんが、たまたまお集まりになりましたが、ここでどなたか仏に会うことができましたか」と言ったように思えた。いやいや、今日のお茶会そのものが仏の世界でしたと、振り返って頭を下げた。

奈良の記 2

今回の旅では、これも奈良には数少ない鎌倉時代の建物、十輪院本堂にも久しぶりに伺った。棟の短い寄棟造の屋根を乗せ、全体に立ちが低く、正面を蔀戸にした珍しい住宅風の仏堂のプロポーションは、変わらず、見るものを捉えて離さない美しさであった。

 十輪院

またこれも久しぶりに宿とした奈良ホテル(明治42年・1909)は、明治時代に東京駅、日本銀行など、西洋の古い建築様式を使いながら、日本に合う大きさ、細部を加えて幾多の傑作を作った辰野金吾の設計で、奈良の景観に合わせるため、屋根の上に?尾を乗せ、白漆喰仕上げの壁を多用するなど、日本建築モチーフを使った建物は100年を経て、少しも古びず、その風格を失っていなかった。

 奈良ホテル