夏の終わり・京都八坂神社(祇園社)の建築

今年は、町々の会所から聞こえる祇園囃子の稽古の音で夏をむかえた。
九世紀から続くと言われる京都八坂神社の祇園祭は、祇園囃子の音とともに、三十三基の鉾、山と呼ばれる山車が町内を巡る。今年はその鉾の一つ大船鉾が百五十年ぶりに復元され、祭りも前祭、後祭の昔の形に戻された。
八坂神社は江戸時代までは祇園社と呼ばれる神仏混淆の社で、境内には神社建築ばかりでなく、塔や堂など、お寺の建築もあった。中世、祇園社は比叡山延暦寺の京の都における出先機関として都の経済の核となるが、古く奈良、長岡から都が移される以前は、地方の豪族であった八坂氏の信仰対象であったろう。
この祇園社の本殿には、他の神社建築とは違った特徴がある。普通の神社本殿は神を祀る簡単な形の建物を作り、後にその前方に幣殿や拝殿が作られるが、祇園社の本殿は神を祀る空間の周りに庇と呼ぶ付属の空間が四方向すべてに付き、さらにその周りに付属の建物が建て加えられた形(八坂造)になっている。
このような形は、平安時代の寝殿造に見られるように人間が使う建物の形式で、神を祀る一般的な形式ではない。これについて、建築史の碩学太田博太郎は、本殿の背後に神が居るとされる山や森があるため、本来この山や森に対して儀式を執り行う拝殿の建物が、後に本殿に転用されたのではないかと考えた。
この説については、最近三浦正幸が庇の空間は神宝を納める空間であるという反論を出しているが、他の諸例と比較すると神宝空間の必要性だけでこの形式を説明するのは少々無理があるように思う。これについては別の機会に詳しく述べたいが、この特異な形式は、太田説に加えて、神仏混淆の信仰形態に関係があるだろうと考えている。
祇園社については、その背後(北)に大物主の神の居ます霊峰比叡山が聳えているので、太田説による形式の一つと考えられ、また社殿の創建については藤原基経邸宅寄進(877)の伝承もあるから、住宅建築の形式を踏襲しながら改築されたとも考えられる。しかし、祇園社にはもう一つの秘密がある。それは本殿中央、神座の真下に湧水の池があることである。現在、この池はセメントの蓋でおおわれてしまっているが、古くは龍の住む龍穴と言われていた。湧水は縄文、弥生の時代から信仰対象になることが多く、その位置は殆ど変らないから、この龍神池が古くから八坂氏の信仰対象であり、神社の本殿は比叡の山に向かうともに、その信仰対象の上に建てられたと考えられるのである。神仏混淆の社寺の場合、祭祀空間には神と共に本地仏が祀られるから、建物は仏を祀る仏堂のような形式になっていても不思議は無く、八坂造は仏像を祀る正堂の前面に礼堂、背側面に参籠所が付く形の発展と見ることもできよう。
祇園祭は古くは祇園御霊会と言い、身に付いてしまった悪霊を矛に移し、それを水に流す祭りだったと言われている。その矛が中世には鉾や山に変わり、山車は遠くペルシャの絨毯で飾られて現在の祇園祭になる。そして、四条の大橋へと至る祇園社の西参道には念仏、歌舞伎などの聖や芸能者たちが集い、江戸、明治の時代に舞子、芸子の行き交う祇園へと変わっていく。
しかし、時代が移り、様々なものが変わってしまっても、祇園社の本殿が歴史の形を保ち続けるように、長刀鉾に乗る稚児は禿頭の中世稚児の姿そのままに注連の綱を切り、京都の町衆の意気と粋の結晶である祇園囃子は都の栄枯盛衰の夢の昔を奏でる。もう鱧の盛りは終わり、秋風が吹いて夏は終わる。

  かなしみの あればかなしく 聴こゆるよ
  祇園囃子の 鉦のひびきも
                      吉井 勇

2014年9月1日記