February 2015

February 2015

カテゴリー

金沢の建築

Bookmark and Share
突然、雷が鳴り響き、おおつぶの霰(あられ)が降り出した。
べんがら塗の格子の写真を撮りに行った、12月はじめのひがし茶屋街でのことである。金沢は日本一 雷の多いところで、この時期の雷は、鰤(ぶり)が沿岸にくる季節と重なるため、“ぶり越こし(おこし)”と言うのだそうだ。


ひがし茶屋街


あわてて建物の庇の下に身を隠し、晴れるのを待ったが霰はやがて雪に変わった。時間がたてば雪も止むかと思い、茶屋街で最も古い建物・志摩(重要文化財)に入った。何年かぶりに訪れた志摩は、赤い色付けの壁、様々な形の凝った格子の桟、色香を感じさせる屏風、飾りなど、昔と変わるところはなかった。しかし、二階の主座敷で、ふと目を上げると兎の形をした釘隠し金物に気付いた。正面から見た兎の姿を写した、その珍しい形(真向兎・まむきうさぎ)は、紛れもなく江戸初期に活躍した大名茶人・小堀遠州のものだった。はっとして、もう一度座敷を見ると、壁の色や障子桟などの細部は茶屋建築らしく細く、柔らかいが、柱や梁の太さ、数寄屋建築では省くことの多い長押を回らすその意匠は、端正で、崩れの無い骨格を持っていることに驚かされた。


上/志摩 二階主室 下/釘隠し金物・真向兎


雪は、その後も降り積もり、金沢の町は初めての大雪で、すべてが白くなった。
話に行く予定の大学への道も閉ざされるかと危ぶみながら、ホテルの部屋に届いた朝刊を見ると、そこには「福井で寿福院宛の本阿弥光悦直筆の手紙が見つかった」(北國新聞、2014,12,6)とあった。寿福院とは、加賀(金沢)藩を開いた前田利家の側室・千代保のことで、手紙の内容は京都の日蓮宗寺院・妙顕寺へ寿福院が光悦揮毫の額を寄進し、揮毫の礼に光悦に真綿などを与えたことへの返礼だった。寿福院は、加賀藩三代藩主・利常(としつね)の生母で、熱心な日蓮宗の信者だった。そして、一般には知られていないであろうが、この利常こそ、加賀藩の政治、文化を変革し、盤石にした人物なのである。たとえば、兄である二代藩主・利長の菩提を弔うために整備した禅宗建築の瑞龍寺(仏殿、法堂、三門国宝)、後に芭蕉が「石山の 石より白し 秋の風」と詠んだ那谷寺(なたでら)、そして母・寿福院のために作った妙成寺と、加賀に今も残る優れた建築のほとんどは利常が作らせたものである。


瑞龍寺


利常は、積極的に文化を吸収し、茶の分野では京都山碕にある千利休が作ったと言われる茶室・待庵の実測に家来を二人派遣し、利休の孫、宗旦からは利休作の竹の蓋置を買って千家の茶室(又隠)復興に力を貸している。また、小堀遠州に茶を学び、利常が遠州に出した手紙には、行間に朱で遠州が返答を書き入れて送り返すほど、濃密な交流があった。遠州亡き後、息子の江雲、弟の左馬助正春の推挙もあって、千家四代目の仙叟が利常に仕官して、千家流の茶が広まっていくが、今も残る菓子屋・森八の干菓子「長生殿」が遠州のデザインであり、先に述べた志摩の釘隠し金物に遠州型の兎が使われているように、金沢の文化には「綺麗さび」と呼ばれた遠州のデザインが脈々と伝わっている。

建築では、利常関係の茶室は残されていないが、先にあげた那谷寺の書院(重文)には、床の間、違棚、付書院の座敷飾りを、通常の一つらなりの配置にせず、離して置き、空間の多層化を図る遠州の手法が見られる。建てられたのは利常没後だが、大聖寺藩主の休息所として造られた川端御亭(現、江沼神社長流亭・重文)の、同じ大きさの座敷を二つ並べ、それぞれの床の間を斜め向かいに配置して、「二つ巴」形にする変わった平面形式は、遠州の構想ではないかとも言われている。


長流亭(長流亭平面図西澤文隆による)


窓の外に、降り続く雪を眺めながら、雪の重さに耐えるための瑞龍寺の欅柱(けやきばしら)の太さや、白山信仰の岩窟での籠り修行に由来するであろう那谷寺の屋根の無い本殿(重文)を思い出したが、金沢の文化には、この雪と寒さにじっと耐え、静かに深く思索する文化と、それに反発するかのように生命力に溢れ、明るく表現する文化の二つがあるように思う。哲学・仏教学における西田幾多郎、鈴木大拙を生んだ文化と、室生犀星の詩のような文化、下地、布、漆を何重にも重ねて漆黒に光る輪島塗と鮮やかな五彩色に彩られた九谷焼のように。

これは、藩祖・利家の新奇、派手を好むカブキと金沢の風土との融合に始まるのであろうが、実質的には江戸初期の利常と彼が後見した五代藩主・綱紀の間に行われた京都の文化人たちとの交流が大きかった。その中でも、光悦の礼状で明らかになった日蓮宗を介在とした文化的なつながりは注目すべきで、光悦などを支えた桃山・江戸初期の堺や京都の町衆は法華信者(日蓮宗)が多く、また、能登七尾から京に出て名を成した長谷川等伯や狩野派の絵師も法華信者で、日蓮宗のネットワークが当時の文化的創造を培った可能性が高い。

日蓮宗の寺院建築は、古い遺構が少なく、なかなかその全貌がつかめないが、利常が母・寿福院のために整備した妙成寺は日蓮宗の寺で、日蓮宗特有の平面構成になる本堂、祖師堂、三光堂、そして付属する仁王門、五重塔、鐘楼、鎮守・三十番審神堂、経堂、庫裡、書院の建物(すべて重文)が珍しく一揃いで残っている。

能登半島の中ほどにある妙成寺に近づくと、遠望する五重塔は、細く、高く天に延びる美しい姿を見せるが、仁王門をくぐり、その足元に立って見上げれば、最上層に物見のためと言われる窓を設え、要所に秀麗な装飾をふして、すっと立つ姿は、強く、存在感が有って心を打つ。この二面性を持つ姿に、寿福院を、金沢文化の本質を見るような思いがするのは私だけだろうか。


妙成寺五重塔

みんなからのコメント

トラックバック

この記事のトラックバックURL