行の建築

『山海で修行する修験道の最高の行は捨身行(しゃしんぎょう)であるという。「捨身」とは、字義通り断崖絶壁から身を捨て投じて死ぬことである。
修験者は母なる山の胎内に入り、難行苦行を行い、神仏の験(しるし)を得て、生まれかわる。今も続けられる苦行の一つ、大峰山の「覗(のぞ)きの行」は、断崖絶壁から全身を逆さまに吊り下げられるが、死ぬことはない。しかし、その行の果てには捨身があった。慶長年間の耶蘇会士日本通信には、断崖上の鉄の秤(はかり)から行者は谷底に突き落とされ、体は砕け散るとあり、明治時代、最後の修験者と言われた林実利(じつかが)は、那智の滝上から結跏趺坐で滑るように滝に入り、捨身によって命を絶った。

鳥取県三朝の山中にある三仏寺は修験行場と建物の最も古い形を残す修験の寺である。
本堂裏の宿入橋を渡ってこの世に別れを告げ、かずらの根を這い登り、垂直な岩壁を鎖に縋り付き、疲労と恐怖で、全ての感覚が研ぎ澄まされた、その先の断崖絶壁に、投入堂が姿を現す。

投入堂は懸造(かけづくり)の最古の遺構で、本尊胎内文書の年記仁安三年(1168)以前、部材の年輪による用材伐採の推定年代から十一世紀後半から十二世紀にかけて建立されたと考えられる。
全体を左右非対称に造るにもかかわらず、長短十六本の柱と共に、完璧な均衡と統一を持ち、自然に溶け込むように見せながら埋没せず、片足立ちの本尊、蔵王権現(ざおうごんげん)のように屹立するその姿は、山岳信仰建築の白眉であるのみならず、日本文化が創り出した最高の意匠と言えよう。
堂に上るには、直下の岩壁を岩にしがみついて右回りに行道し、付属する愛染堂との間を抜け、後ろから縁に出る。前方の眺望に息をのみ、宙に浮かぶ縁から覗く深い谷は、死を感じさせずにはおかない。投入堂の呼び名は、修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)が空から材料を投入れて造ったためと伝えられるが、投入れたのは材料ではなく、行者自身そのものではなかったかと思わせる。
修験行の極致を造形化することに成功し、八百年以上も建ち続ける奇跡的な建物がここにある。』

これは、2007年春、『大学出版』という機関誌(NO71春)に書いた文章である。
その後、何度か三佛寺蔵王堂への修行の道を登ったが、今年は、はじめて三佛寺の蔵王権現像(六軀、平安時代)や奉納鏡(鸚鵡文銅鏡、唐時代)が東京の美術館に出展され、同寺の米田御住職にも東京での講演をお願いしたため、お祝いとお礼のため、再び登拝の旅に出た。山下の本堂で御住職に護摩修法をしていただき、入口の登山事務所で名前を記し、輪袈裟をかけて行場に入る。文殊堂まで登る急勾配の修行道をゆっくり登って行くと、先達していただいた山伏姿の御住職の掛念仏が聞こえる。

「懺悔、懺悔、六根清浄・・・、サンゲ、サンゲ、ロッコンショウジョウ・・・」
山の神仏に懺悔し、身体の六根(眼、耳、鼻、舌、身、意 )を清らかにしたまえとの意味である。苦しい時に掛念仏を唱えると、不思議と足が前へ進み、力が出る。繰り返せば雑念は飛び、ただただ空っぽの体が、私自身が歩く。
御住職に、修行される時に何を考え、何を感じられるか、何か特別な体験をされたことがあるかと聞いてみたことがある。
「三徳山はそれほど高くないが、胎蔵界の女性成仏の行場と男性的な金剛界の行場が、連続する凝縮された行場で、思わず畏敬の念を抱く山々が、修行の場としての自然界が、起承転結と構成されている。自然界を祈る信仰、八百万の神の信仰、仏の信仰が合体したものが修験道の根本で、千年昔の先人の神仏への畏敬、冴えたる祈りが、良くぞこの場所を求め、諸堂を建立したものだと、ただただ、懺悔懺悔六根清浄と念じながら感動して祈っている。」という答えだった。

室町時代の再建以来、四百数十年屹立する文殊堂と地蔵堂。さらに古い納経堂。九百年の命を保つ蔵王堂。平安時代そのものの行場の姿。
何度登っても、登れば登るほど、建物と行場、そしてそれを守り続けた人達に頭が下がる。
先頭を進み、山の神仏に手を合わせ、読経、礼拝される御住職の背中に手を合わせるほかはない。