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ARCADE 2010/02/27 プレゼン資料 「経験知についての考察」
◯arcadeでの議論の為に書いた文章。
「言いたい事がわからない」「経験知の説明不足」などの意見を頂いたが、
あえて加筆なしでココにアップしようと思う。
もはや自分でも説明が困難な状況になりつつあるのであった。
以下文章。
LRAJ2010を通して考えたこと。
●経験知について
① 集合知と経験知
科学的・量的根拠に基づくものと、非科学的・質的根拠に基づくものがある。集合知は前者に当たり、大量のデータを集めることで無意識を可視化しようとする。対して、磯崎新の漢字を起源とする設計や、海市での風水による設計は後者に当たり、非科学的な経験知によるものである。
ここで注目したいのは、目に見える集合知だけではなく、目に見えない経験知も同様に建築の動機になりえるという事である。LRAJ2010では集合知だけが議論の対象となっており、経験知的なものについての議論はなかった。(そもそも議論できるのか)
例えば、西洋医学のように科学に基づいたものでは解けなかった病気が、非科学的といわれる鍼灸ではあっさり解けてしまう場合がある。なぜなら鍼灸は”経験”医学=経験知だからである(もちろん西洋医学も経験に基づいているのだが、重要なのは科学という“見える”ものであるか否かである。)。経験知は叡智であり、“長い歴史のなかで”積み上がってきた経験という大量の見えないデータの元で成り立っている。そこには見えるか見えないかという違いのみ存在する。したがって経験知は集合知と同様の性質を持っている。
むしろ、経験知の方が質としては高いものである。何故なら、歴史の浅い一人の知識を大量に集めるのが集合知であり、長いスパンの歴史の中で築かれたものの集積が経験知であるからだ。集合知は不均質で、全体としては平均にしか成り得ない(それ故に“一般”意志と呼ばれるのか)。したがって、質は経験知が上回る。
ここで質を強調しているのは、集合知による建築では、建築が死んでしまうからである。アレグザンダーがパタンランゲージに基づいて建てた建築を、知識人達は“失敗”と評す。翻訳過程での失敗という見方もあるが、磯崎新が「最も表層的で、最も陳腐なポスト・モダニズムにしかならなかった」と述べた通り、その一般意志の集約としての建築は陳腐なモノにしかならなかった。結局すべての設計を一般に委ねると建築は死ぬのである。「お前ら一般人には所詮ここまでしかできないよ」と暗示しているようにすら思える。建築において集合知がはたして本当に善なのか。集合知の“支配”が建築を殺してしまうのではないか。そういうことを筆者は危惧している。建築家は不要ではない、ただ翻訳者としてあればいいのだ。
②海市
Googleや超線形設計プロセスが重視されるのは、単純に言えば見えるからであり、資本主義社会のコンテクスト上、論理的(科学的)根拠=見えるものが無ければ建築は建たない。しかし、見えないものが文化の無意識として見えている。そういうコンテクスト上に於いても、同様に建築は建ちうる。そこでは“信じる物語の力”が共通了解として土台のように築かれている
この両者を併せ持ち、共存の可能性を模索したプロジェクトが<海市>である。これは「西風と東風の出会うところに、それらの遭遇から生まれる新たな“渦巻き”を見出すことが可能か」という試みであるが、単に「西風=資本主義」「東風=アジア」という構図ではない。それぞれを集合知と経験知と読み解くことも可能である。ここでは集合知と経験知が見事に“渦巻き”となって現れている。
このように磯崎新は集合知も経験知も模索している。単純にアーキテクチャ=集合知なのか。逆にアーキテクチャによって経験知を可視化できないのか。それを建築に活かせないのか。このプロジェクトはそういう未来の可能性を我々に呈示している様に思う。
27/2/2010
KOKI AKIYOSHI
「言いたい事がわからない」「経験知の説明不足」などの意見を頂いたが、
あえて加筆なしでココにアップしようと思う。
もはや自分でも説明が困難な状況になりつつあるのであった。
以下文章。
LRAJ2010を通して考えたこと。
●経験知について
① 集合知と経験知
科学的・量的根拠に基づくものと、非科学的・質的根拠に基づくものがある。集合知は前者に当たり、大量のデータを集めることで無意識を可視化しようとする。対して、磯崎新の漢字を起源とする設計や、海市での風水による設計は後者に当たり、非科学的な経験知によるものである。
ここで注目したいのは、目に見える集合知だけではなく、目に見えない経験知も同様に建築の動機になりえるという事である。LRAJ2010では集合知だけが議論の対象となっており、経験知的なものについての議論はなかった。(そもそも議論できるのか)
例えば、西洋医学のように科学に基づいたものでは解けなかった病気が、非科学的といわれる鍼灸ではあっさり解けてしまう場合がある。なぜなら鍼灸は”経験”医学=経験知だからである(もちろん西洋医学も経験に基づいているのだが、重要なのは科学という“見える”ものであるか否かである。)。経験知は叡智であり、“長い歴史のなかで”積み上がってきた経験という大量の見えないデータの元で成り立っている。そこには見えるか見えないかという違いのみ存在する。したがって経験知は集合知と同様の性質を持っている。
むしろ、経験知の方が質としては高いものである。何故なら、歴史の浅い一人の知識を大量に集めるのが集合知であり、長いスパンの歴史の中で築かれたものの集積が経験知であるからだ。集合知は不均質で、全体としては平均にしか成り得ない(それ故に“一般”意志と呼ばれるのか)。したがって、質は経験知が上回る。
ここで質を強調しているのは、集合知による建築では、建築が死んでしまうからである。アレグザンダーがパタンランゲージに基づいて建てた建築を、知識人達は“失敗”と評す。翻訳過程での失敗という見方もあるが、磯崎新が「最も表層的で、最も陳腐なポスト・モダニズムにしかならなかった」と述べた通り、その一般意志の集約としての建築は陳腐なモノにしかならなかった。結局すべての設計を一般に委ねると建築は死ぬのである。「お前ら一般人には所詮ここまでしかできないよ」と暗示しているようにすら思える。建築において集合知がはたして本当に善なのか。集合知の“支配”が建築を殺してしまうのではないか。そういうことを筆者は危惧している。建築家は不要ではない、ただ翻訳者としてあればいいのだ。
②海市
Googleや超線形設計プロセスが重視されるのは、単純に言えば見えるからであり、資本主義社会のコンテクスト上、論理的(科学的)根拠=見えるものが無ければ建築は建たない。しかし、見えないものが文化の無意識として見えている。そういうコンテクスト上に於いても、同様に建築は建ちうる。そこでは“信じる物語の力”が共通了解として土台のように築かれている
この両者を併せ持ち、共存の可能性を模索したプロジェクトが<海市>である。これは「西風と東風の出会うところに、それらの遭遇から生まれる新たな“渦巻き”を見出すことが可能か」という試みであるが、単に「西風=資本主義」「東風=アジア」という構図ではない。それぞれを集合知と経験知と読み解くことも可能である。ここでは集合知と経験知が見事に“渦巻き”となって現れている。
このように磯崎新は集合知も経験知も模索している。単純にアーキテクチャ=集合知なのか。逆にアーキテクチャによって経験知を可視化できないのか。それを建築に活かせないのか。このプロジェクトはそういう未来の可能性を我々に呈示している様に思う。
27/2/2010
KOKI AKIYOSHI
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