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藤井 亮介

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断面のないテーブルクロス

中山英之「小さくて大きな家」展 に行ってきました。



写真で見ても分かるように会場には図面がありません。模型とそのテーブル、テーブルクロス、小さなキャプションが一つのセットとなり、プロジェクトごとにテーブルが散在しているという会場構成になっています。



模型には通常、敷地模型がつきものですが、今回の展示では敷地模型はなく建物の下にテーブルクロスが置かれているのみ。草木や道路の舗装のプリントがテーブルいっぱいに広がり、それがそのまま縁の下に垂れ下がっています。



敷地模型はモノとしての性質上、必ず端があり、またそれよって切断された敷地の断面があります。敷地の端は距離で決まることもあれば、模型を持ち運ぶ箱という建物とは関係のない要因で決まることさえあります。ただ、敷地模型に切断面があることで、僕らはそこが違う世界であることを認識し、頭のモードを切り替えてそこにあるスケールやテクスチャにピントを合わせることができます。



しかしテーブルクロスには断面がありません。頭のモードを切り替える暇もなく模型が直接目に入ります。スケールの手がかりになりそうなテーブルや扉を探し当てたとしても、それは時には大きすぎて実際の建物の大きさはなかなか把握できません。でもそこには道路であったり草原であったり、必ず敷地とのつながりが見られます。建物と敷地はしっかりと結びついていて、それ以外の部分が空白になっているようです。



それはやはり敷地の中で周辺環境を無視して建物だけを強調することとは一線を画します。むしろ建物のない敷地だけの模型を見ているような印象さえあります。建物としての境界線はしっかりとありながら、敷地と同化していくような感覚です。

これは公共性のあり方を示す一つのモデルとしても考えられます。次回は乾さんとの対談の内容にも触れ、公共性について掘り起こしていきたいと思います。(つづく)



中山英之「小さくて大きな家」展

会期|4月27日(水)~5月8日(日)11:00~20:00
会場| AXIS ギャラリー  (東京都港区六本木5-17-1)


AARTV vol.4 ustream 公開決定

AARTVの公開編集会議の様子をustream中継いたします。

放送日時 2010年8月28日(土) 15:00-16:00
内容 ART and ARCHITECTURE REVIEW (AAR) の公開編集会議

進行 藤村龍至
カメラ 藤井亮介
出演 藤村龍至+伊庭野大輔+藤井亮介+松島潤平+本瀬あゆみ+刈谷悠三

ゲスト mashcomix

URLは

http://www.ustream.tv/channel/aartv

です。

インストールされた島

瀬戸内国際芸術祭に行ってきました。





実家が香川なので
これまでにも瀬戸内海の島には何度か足を運んだことがありますが、
2日で6つの島を渡るという経験は今回が初めてでした…。


全体的にかなり詰め込んで見たので
「島独特の時間に浸りながらゆっくと見る」という本来の趣旨からは
だいぶかけ離れた見方をしてしまいましたが、
スピードアップしたおかげで全体を俯瞰しながら見れたように思います。





全体としては、作品単位ではなく
「島」単位での記憶がまとめられているような印象を受けました。
短期間で多数の作品を見たので、
それぞれの作品の差異の方に目が行ったということもありますが、
島と島はフェリーでしか渡れないという物理的な制約と、
離島であるがゆえに生まれた各島の文化の独自性が、
作品群と相まって島全体をうまくパッケージングできていたからこそ、
「島」を感じれたのではないかと思います。
つまり歴史や風景といった島そのものが築きあげてきた土台に、
新しい楔が打たれることで全体像がより立体的かつ明瞭に浮かび上がる、
という構図でしょうか。


中でもパッケージングが成功していたな、と思うのが犬島と男木島です。
犬島は御影石や精錬所といった島の歴史や風景に
アートがうまく配置されることで島全体の回遊動線がつくられていたし、
男木島は傾斜地の住宅群や石積みが
作品群と常にセットで経験できるようになっていて、
歴史と現代の経験を往復させるような環境が用意されていたように思います。





ここでふと思い出したのが
『インスタレーションは「インストール」から生まれる』
という山崎泰寛氏の言葉です。
つまり、インスタレーションとは単に作品を設置することではなく、
空間や環境にインストールする行為なのだ、と。
そのためにはOSが何か、スペックに問題はないか、
現行のプラグラムとどのように関連付けをするのか、
といったことを予め検証する必要があり、
これらを十分に考慮したうえでインストールが成功すれば、
空間がバージョンアップされ、新しい環境が立ち上がるのです。


犬島の建築群は
まさに空間のバージョンアップに成功した例だと言えるでしょう。
SANAAの用いた透明・反射の効果と配置・フレーミングという操作は、
自身の建築の見せ方というよりは周辺の環境をいかに書き換えるか、
ということを考えられているように思えました。
光の到達の仕方を少し変える、距離をつくる、部分的に見せる、
これらはすべて外部に対する働きかけであって、
既存の文法の継承と部分的な改変という操作は、
周辺環境も含めたバージョンアップであると言えます。





切断面としての海の存在によって、
各島はガラパゴス化し独自の環境を形成してきました。
今回、それらの島に改めて新しいプログラムがインストールされ、
再びお互いがネットワークで結ばれた結果、
瀬戸内は新たな生態系として変化を遂げようとしています。
遺構となってしまったシステムが現代で再生するためには、
システムをより有機的な状態へと変化させること、
つまりは外部因子も含めた多種の要素が
流動的に振舞うような環境をつくることが求められているのだと思います。


我々はスープの中でスープとなり、スープを飲み、
新たなスープをつくっているようなものなのかもしれません。

AARTV vol.3 ustream 公開決定

AARTVの公開編集会議の様子をustream中継いたします。

URLは


http://www.ustream.tv/channel/aartv

です。

AARTV vol.2 ustream 公開決定

AARTVの公開編集会議の様子をustream中継いたします。

URLは


http://www.ustream.tv/channel/aartv

です。

FM24.7 公開収録とUSTREAM中継のお知らせ



【FM24.7 公開収録とUSTREAM中継のお知らせ 】

日時: 5/3(月) 12:00-13:00
場所:ヨコハマアパートメント

http://www.ustream.tv/channel/fm24-7
上記URLにてUSTREAMによる中継を行います。


これまでの『FM24.7』の議論をおさらいしつつ、
webデザインの根幹である「ハイパーテキスト」について
matsushimaJP と fujiidata が語り合います。

乞うご期待!

AARTV ustream 公開決定

AARTVの公開編集会議の様子をustream中継いたします。

URLは


http://www.ustream.tv/channel/aartv

です。

「科学的」な創造力

今回は先日森美術館で開催された『医学と芸術展:生命と愛の未来を探る』と、
金沢21世紀美術館で開催された『オラファー・エリアソン あなたが出会うとき』
という二つの展覧会のクロスレビューを書きたいと思います。



まずは『医学と芸術』展について。
展覧会のタイトルにも掲げられた2つの概念の関係は、普通に考えると
医学=人間を読む/分析する 、芸術=人間を描く/表現する
という図式が思い浮かびますが、展示ではそれを踏まえた上で、
医学の芸術性や医学的アプローチの芸術まで広くカバーしており、
医学と芸術を双方向にクロスオーバーさせるというキュレーションが際立っていました。
一見すると「医学は芸術のプロセスである」と言いたくなるのですが、
医学と芸術の関係はもっと別の言葉で表現できそうです。



かつてダ・ヴィンチは人間を描く際に、
人体の骨格や動作の原理など、表面に表れてこない「構造」を分析する
という姿勢をとっていました。
このような、表現のための分析行為は遥か昔から現在まで続けられていますが、
結局のところ「人間とは何か?」が分からない以上、
永遠に終わることがありません。
もちろんここでいう「人間とは何か?」という問いは
あくまで医学的な見地に基づく物体としての人間の構造についてですが、
それでも未だに解明されていないことが多すぎるのです。
それゆえ、人間を読む/分析するという行為については
アプローチもプロセスも多方向のベクトルを持っており、
もはやそれに対して何かしらの解答を導き出すことは、
ひとつの「表現」になると言っても言い過ぎではありません。

『医学と芸術』展の出展作品はこのような表現=創造の結果であり、
またそれは分析的な表現という意味で、
「科学的」な創造と呼ぶこともできると思います。
一般的に ものを構築/統合する概念は工学であり、
科学とは ものを分析/解体する概念であるとの認識が強いため、
「科学的」な創造というのは、概念として矛盾しているような印象があるかもしれませんが、
今回のこの展示を体験したことで、芸術や表現を語る上では
工学ではなく科学に着目することの方がむしろ重要なのではないか
ということに気づかされたのです。



「オラファー・エリアソン」展でみられた作品群は、
単純な原理から未知の現象を作り出しているという意味で構築的とも言えるのですが、
その原理がブラックボックス化されていないため、
作品を分析する行為も同時に体験できる、という側面もあります。
もちろん作品を純粋に感じると同時に、その原点について考える行為は、
一般的なアートの鑑賞法ではあるのですが、
遡った原点が作家に依存するものではなく、
客観的な「原理」に行き着く、という点で違いがあり、
しかもその追跡可能性が誰に対しても開かれている事が彼の作品の特徴でもあります。
伊庭野のブログ参照)
このような構築的であり、かつ分析的でもあるという作品は
まさに工学と科学を架橋する存在だと言えると思います。



人間を知るための医学に終わりがないように、
自然や世界を知るための科学にも終わりはありません。
また、今の世界を知りたいという欲望とは別に、
新しい世界を見たいという欲望にも限りはなく、
だからこそフィクショナルな科学(SF)は生産され続けています。
僕にとってSFの存在意義は、
設定されたルールからいかにして新しい世界をつくるか、
という工学的な側面からではなく、
作られた新しい世界と設定されたルールがどれだけリアリティを持ってつながっているのか、
という科学的な側面から考えることが重要だと思っています。
様々なインターフェイスによって拡張された現実が存在するこの世界では、
むしろ現実世界へと遡る「科学的」な創造力にこそ面白さを感じるのです。

「NO MAN'S LAND」は誰のものか?

旧フランス大使館において開催された
『NO MAN'S LAND』(2009/11/26~2010/2/18開催)
の展示を見てきました。

この展示はかつて大使館として使われていた建物を、
現代アートの展示場所として再生させようという試みのもとで行われた企画です。
そもそも「大使館の土地」というのは極めて特殊で、
現在旧フランス大使館が建っている場所も、
日本に存在しているにもかかわらず「外国」と見なされていた土地でした。
このような、かつては別の国によって所有されていた空間が、
一時的に「誰のものでもない場所(*)」
として存在している事そのものを
現代アートのコンテクストとして描くことはできないだろうか、
というのが今回の展示の大きなテーマだったように思います。

(*実際には土地の所有は日本の民間企業に移っています)



「誰のものでもない場所」というのは
一見すると純粋で、健康的で、自由なイメージがあるかもしれません。
自由であるという事は、
言い換えると、束縛のない、いわば宙に浮いた状態でもあります。
今回の企画である「NO MAN'S LAND」は
まさにフランスと日本の間で浮遊している状態の中で作られたアートによって
それぞれの文化の橋渡しをするという意味も含まれており、
展示された作品にはそれらを真摯に受け止め表現していたものも少なくはありません。

ただし今回僕が取り上げたいのは、
所有の概念が浮遊した状態のなかで両者をつなぐことを意図した作品ではなく、
あえて所有の「主体」について言及した作品です。
つまり、ここは「誰のものでもない場所」ではなく、
やはり「誰かのものである場所」なのだということを感じ取れた作品の方が、
むしろ展示のテーマに応えているような気がしたのです。



展示の中でも特に印象に残っているのが、
空間は元のままほとんど手を加えず、ただ規則的に石が置かれてある作品。
石の間隔は規則的だけど、
その軌跡は床から壁、棚へとゆっくりと這う足跡のように配置されており、
空間から人が去った後の新たな住人として石が存在しているようでした。
また窓や棚など人間のためのしつらいも、
空間の主体が人間から石へと移ったせいで
時間やスケールの感覚までもが違っていたように思えます。

また部屋の中全体をシュレッダーされた辞書で埋め尽くしている作品や、
屋上庭園に舟形の穴を掘り、コンクリートを流して固めた後、
再びコンクリートを土もろとも持ち上げた作品などにも共通して言えるのは、
国や人間という従来の場所の所有者や主体から空間を捉えるのではなく、
「別の所有者/主体」の視点を示すことによって
空間がもっと生き生きとしたものになる、
という考え方をしているという事です。



かつて行われた『カフェ・イン・水戸』というイベントの中で
アトリエ・ワンは『植物の家』という作品を手がけています。
これは過疎化の進む水戸の商店街・住宅街で
「リノベーション」という手法が最も有効に働くのは、
主体を人間ではなく植物に変えることではないだろうか、
という考え方のもとに、
「建物」を美しく甦らせるのではなく、
「植物」が気持ちよく育つよう「半解体」したというプロジェクトです。
これは過疎化された場所で人間がいなくなった今、
建替えや新築によって街を活性化させるのではなく、
植物をも街の主体として捉える事で、
過疎化をポジティブに建築化した好例だと思います。

建物の解体前の展示といえば、
マンガ家集団mashcomixによる
『mashcomix house』というプロジェクトもありました
(メンバーのHogaleeさんは今回の旧フランス大使館の展示にも出展されていました)。
これは建物そのものをマンガのコマに見立て、
mashcomixのメンバーたちが壁や床、ドアからコンセントまで
ありとあらゆるものを使って文字通り縦横無尽にマンガを描いたプロジェクトです。
それぞれのキャラクターは描き手によって異なりますが、
まったく別々のキャラクターが建物の形態によって関連しあったり、
壁面のなかを動いていたキャラクターたちが突然3次元の世界に干渉してきたりと、
とにかくマンガによって建物が使い倒されている。
この建物の中では我々はあくまで異邦人であり、
建物の主体は描かれたキャラクターたちに応じて細分化されているのです。



情報化社会を生きる我々にとって、
モノや空間の所有の概念は解体の一途を辿っています。
しかし、だからと言って、
それらが「誰のものでもなくなる」わけではありません。
そこには見えにくいけれども、
何か別の主体たちが確かに存在しています。
モノや空間をつくるということは、
これらの見えない主体、あるいは細分化された主体を発見し、
彼らのための手法を導くことなのではないでしょうか。

#LRAJ2010 USTREAMレポート

2/6(土)に我々TEAM ROUNDABOUT(以下TRA)主催によるイベント
『LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010』
をINAX:GINZAにて行いました。

当日の講演や議論については、TRAのメンバーである
松島JPによるレポート

本瀬あゆみによるレポート
がアップされておりますのでそちらもご覧ください。

今回、僕はUSTREAMの動画配信を行った立場(「中の人」目線)から
少し視点を変えてレビューしたいと思います。

*当日配信したUSTREAMのビデオは下記のリンクからご覧ください。
*ビデオの公開は2010/2/28→2010/3/31までとさせていただきます。ご了承ください。

第1部

■SESSION 01 濱野智史/藤村龍至|アーキテクチャ時代の幕開け

■SESSION 02 酒井康史/連勇太朗|媒体から方法へ

■SESSION 03 池上高志/李明喜+岡瑞起/藤本壮介|弱い「あいだ」のあり方

■SESSION 04 磯崎新|ただプロセスのみが時代を超えていく

コメンテータ:東浩紀・南後由和・倉方俊輔・橋本純(以上、敬称略)


第2部

■総括討議「メタボリズム2.0」(前半)

■総括討議「メタボリズム2.0」(後半)

パネリスト:東浩紀・磯崎新・黒瀬陽平・南後由和
コメンテータ:橋本純
モデレータ:濱野智史・藤村龍至(以上、敬称略)

+Y-PACによる当日編集の動画はこちらから



まずイベントをやる前に挙がったUSTREAM導入に際しての最大の心配事は
「はたして動画配信という手段でこのライブを伝えてしまっていいのか?」
ということ。
今までのLIVE ROUNDABOUT JOURNALでは、
ライブであることの意義や、即日でフリーペーパーを作ること、といったように
空間や物質に裏付けられた濃密さを重要視していたのですが、
それらを超越してしまうUSTREAMというツールは、
これまで培ってきた枠組みを壊してしまうような心配があったのです。

とはいえ、我々TEAM ROUNDABOUTの目標は
あくまで「議論の場を設計する」ということ。
今回のUSTREAM導入はそのフィールドを拡張するための手段
だということで実現に踏み切りました。




会場に来られた方は実感されたと思いますが、今回のイベントは特に情報が多く
・前では登壇者のレクチャーをやっている
・後ろではそれがリアルタイムで編集されている
・前の画面ではレクチャーのプレゼンテーションに加え、twitterのTLが流れている
・手元のPCもしくは携帯電話ではtwitterを入力する
というように、これらをすべて完璧にトレースすることは不可能だったと思います。

僕自身もUSTREAM中継でビデオを回しながら
twitterをフォロー+発言をするという作業のせいで
登壇者の発言を聞き逃すことが多々ありました。
だけど、イベントを振り返ってみると
登壇者の発言はtwitterのTLである程度推測できるし、
(実際、当日のライブレポートを書いた松島JPも
twitterの情報を元に議論を整理した、と言っています)
むしろビデオの画面やtwitterの発言によって
付加情報すら加わります。

twitter連動イベントに慣れている方は、
オリジナルの情報の欠如と、オルタナティブな情報による補完の効果は
もはや日常的に感じるようになっていると思いますが、
このような効果はUSTREAMの動画を視聴している人にも
あてはまるのだと思います。
つまりUSTREAM視聴は会場での空気感やディテールまでは分からないけど、
PC上だとtwitterのTLが読みやすいとか、
自宅にある本や資料をすぐ参照できるとか
欠如した情報を補う環境がむしろ整っているのではないか、ということです。

映画『THIS IS IT』は
マイケル・ジャクソンが生前行ったリハーサル映像を集めたドキュメンタリーですが、
これは「リハーサル」という不完全なショーの断片をつなぐことによって、
ひとつの壮大な仮想コンサートを作り上げる、という手法をとっています。
この仮想コンサートという形式の優れているところは、
あえて失敗ややり直しの部分を見せて不完全性を演出することで、
逆に視聴者にその欠如を補完させている、ということであって、
これは仮想の現実空間を想起させるような「演劇」の不完全性に近いのかもしれません。

しかし、やはりそれぞれの環境に委ねることによって議論を補完させる
という考え方は
議論の場が開かれているが故に、議論自体が拡散してしまう危険性もあります。





話が逸れたついでにすごく個人的な話をしますが、
思い起こせば、僕のインターネットヴァージンを奪ったのは
『world chat/J』という3Dチャットのサービスでした。
このサービスは、アバター(今やすっかりこの名前も定着しましたが…)
と呼ばれる自分の分身を操作して仮想空間内を自由に動き回り、
アバター同士は同一空間内でチャットできるというものだったのですが、
今考えると、3Dチャット特有の「部屋」という概念によって空間を有限にしていたことや
当時あったテレホーダイ(23時から5時までなら定額で電話し放題)という時間的な制約が、
延々続いてしまうチャットをうまく切断していたように思います。
同様の考え方だと、例えばtwitterの140字制限、ハッシュタグという概念は
3Dチャットにおける「部屋」のような
アーキテクチャとして機能しているようにも思えます。





「USTREAMを見ていたが、いてもたってもいられず会場に駆けつけてくださった方がいたらしい」
という話を聞いて思うことは、
物理的な空間は議論を濃密にさせるアーキテクチャの一つである、
ということなのですが、
今後は、USTREAM+twitterが前提となった上で
何かもっと別の形のアーキテクチャを用意する必要があるのだと思うのです。

それは自由な地平の中で統合へと導くシステムのようなもので、
次なる展開では、「議論の場の設計」をさらに進化させるべく
そのためのアーキテクチャをもっと掘り下げて考えていきたいと考えております。


最後になりましたが
会場に来てくれた方々はもちろんのこと、
USTREAMを視聴していただいた方々、
twitterで発言してくださった方々、
イベントを手伝っていただいた方々、
会場を提供していただいたINAX:GINZAの方々、
本当にありがとうございました!

今後ともよろしくお願いいたします。

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