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- 02月 08日 07:10 / FDmountwill_millsの日記
- [社会] #LRAJ2010 Ust配信 PCの前でぶっ続けで見た
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- 累計: 26119 hits
- ※過去30日の累計を
表示いたします。
人間と歌
世の中には死ぬまでに一度でいいから、生で、目の前で聴いてみたい曲があるものだ。
その人に近づけば近づくほどいい。
出来ることならmm単位まで貼り付いた状態で聴きたい曲。
僕の場合は、
Maurizio Pollini : ショパン『Etude Op.10 No.01 in C major_Allegro』
Nuno Bettencourt : 『Midnight Express』
そしてCyndi Lauper : 『I'm Gonna Be Strong』である。
Lady GAGAが来日したから、天邪鬼的にCyndi Lauperの懐古話をするわけじゃないです。
いつだろうがなんだろうが、僕はこの曲が大好きなんである。
もーなんてったって好きなのだ。
素敵であるとともに、変な曲である。
リフ→ヴァース→ブリッジ→サビ→繰り返し、なんてお約束の流れには乗らない。
ただただ一本道でテンションが上がっていき、
絶唱、という程にタコメーターが振り切って終わる。
かよわく始まりながら、
いつの間にか強靭な意志の煌きを見せ付ける凄まじいテンションへと至るが、
ラストの絶唱部分の歌詞は
And you'll never know darling
After you kiss me goodbye
How I'll break down and cry.
と、弱さで終わる。
真っ直ぐだけど、皮肉な曲でもある。
ラブソングでありながら、毅然としたメッセージソングのように聴こえるところも心を掴む。
さて、この曲はカヴァー曲である。
1963年にFrankie Laineが発表し、
1964年にはGene Pitneyがカヴァー。
その16年後、1980年にシンディがソロでデビューする前のロカビリーバンド:
Blue Angelsでカヴァーをリリース。
そして1994年に現在のヴァージョンへと至る。
30年越しのメロディなのだ。
こちらはスタジオ版。
前二者のヴァージョンも素晴らしいが、
シンディの手に渡ったときの昇華具合はすごいものがある。
メロディをいじくりまくっていて、
一本道で昇り詰めていく連続感が巧妙に作られている。
(スタジオ版の2分3秒に一瞬挟む"wowow"とか、2分11秒のdarlingとか、)
しかもそれを、極めて無邪気にやっているような印象もある。
+++
:
1994年当時、15歳だった僕を含めて田舎の中高生までにもバカ売れした
彼女のベスト盤:『TWELVE DEADLY CYNS...AND THEN SOME』において、
『Girls Just Want to Have Fun』も
『Time after Time』も
『True Colors』も差し置いてこの曲が冒頭を飾る理由は、
彼女の音楽活動の原点の曲であるとともに、
商業的なことは無関係で、確固たる手ごたえがあったのだろうと思う。
このアルバムは夜更かしを覚えた頃、深夜にテスト勉強の傍らよく掛けたものだ。
『All through the night』
『I Drove All Night』
『The World Is Stone』
は世界に僕しかいない、冬口の静かな深夜によく似合う曲だった。
80年代特有のリヴァーヴ掛かりまくりで奥行きありまくりな音と、
シンディの特徴でもあるフラットに長ーーーーーーく続く長音と、
その後に細~か~く揺~さ~ぶ~る~ヴィヴラートの掛け合わせが、
まだまだ世界には時間があるような感覚を与えてくれて、楽しかった。
そして朝方、夜が白む頃の時間帯に流れる
『I'm gonna be strong』の恍惚感は何にも変えがたいものがあった。
寄り道せずに一本道で上っていくこの曲はなんとなく日の出のイメージで、
自分にとって縁起の良い曲、みたいな感じもあったんだけど、
それよりも、歌というものの原点が見えるような気がしていた。
というもの、僕は基本的にポリフォニー (複数声部)の複雑な絡みが好きなのだが、
モノフォニー(単声部)でここまで愛せる旋律は生まれて初めてだったから。
また何度も言っているように、一本道で昇るという構成で、ちょこざいな企みがないこと。
メタカヴァーという複雑な経緯を辿りながら、
複雑なまま、歌のオリジンに回帰しているような不思議な表情を感じたのだ。
歌のオリジンって?
+++
現在における世界最古の歌は、シリアはウガリットから出土した
約3400年前の粘土板にフルリ語で書かれていたものらしい。
なんとびっくり、ポリフォニー。クラスは2つあるとのこと。
しかしそれが2つのメロディーが絡むものなのか、
メロディとリズムなのかはわかっていない。
完全な形で残っている楽曲、つまり再現可能な世界最古の歌は、
トルコはアイドゥンで発見された『セイキロスの墓碑銘』である。
こちらはモノフォニー。
紀元前2世紀頃から紀元後1世紀頃に作られたもので、歌詞もある。

生きている間は輝いていてください
思い悩んだりは決してしないでください
人生はほんの束の間ですから
そして時間は奪っていくものですから
今の我々にとって世界最古のものが「時間のなさ」を歌っているとは皮肉だね。
メロディは検索すれば聴けます。

『セイキロスの墓碑銘』 現代譜
村上春樹:『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では
影を剥がされた「僕」が人間存在を取り戻す象徴として、歌を思い出すシーンがある。
『新世紀エヴァンゲリオン』でも、第17使徒:タブリスこと渚カヲルくんが言う。
「歌はいいね。歌は人の心を潤してくれる。リリン(人間)の生んだ文化の極みだよ。」
同世代のアーティスト:高木正勝氏は『Tai Rei Tei Rio』でこの命題に迫ろうとしている。
余談だが、僕は彼のライブアルバム:『Private/Public』に収録されている
10分21秒の大曲:『Rama』が、最もその領域に近づいている極みだと思っている。
音楽でここまで感動したのは本当に久しぶりだ。
思うに『I'm gonna be strong』も、『セイキロスの墓碑銘』も、
歌も、文化も、世界が思い通りにならないから歌うのだ。
彼/彼女と別れないといけないこと、人生が儚いこと、
時間になされるがままの世界において、人間が時間で抗う手段なのだ。
短く限られた時間のなかで生命維持の時間をふと忘れ、
いや、時間そのものを忘れ、歌に大事な大事な時間をくれてやる。
歌に命を燃やして、歌に投資するのだ。
+++
今のシンディが、アカペラで『I'm gonna be strong』を歌っている。
ラストのcry三連発を生で聴いている人たちが上げる声は、
歓声というよりは悲鳴に近い。
僕だって生で聴いたら、間違いなく悲鳴を上げるだろう。
これを歌っているシンディは、55歳である。
まだまだ、時間はあるよね。
その人に近づけば近づくほどいい。
出来ることならmm単位まで貼り付いた状態で聴きたい曲。
僕の場合は、
Maurizio Pollini : ショパン『Etude Op.10 No.01 in C major_Allegro』
Nuno Bettencourt : 『Midnight Express』
そしてCyndi Lauper : 『I'm Gonna Be Strong』である。
Lady GAGAが来日したから、天邪鬼的にCyndi Lauperの懐古話をするわけじゃないです。
いつだろうがなんだろうが、僕はこの曲が大好きなんである。
もーなんてったって好きなのだ。
素敵であるとともに、変な曲である。
リフ→ヴァース→ブリッジ→サビ→繰り返し、なんてお約束の流れには乗らない。
ただただ一本道でテンションが上がっていき、
絶唱、という程にタコメーターが振り切って終わる。
かよわく始まりながら、
いつの間にか強靭な意志の煌きを見せ付ける凄まじいテンションへと至るが、
ラストの絶唱部分の歌詞は
And you'll never know darling
After you kiss me goodbye
How I'll break down and cry.
と、弱さで終わる。
真っ直ぐだけど、皮肉な曲でもある。
ラブソングでありながら、毅然としたメッセージソングのように聴こえるところも心を掴む。
さて、この曲はカヴァー曲である。
1963年にFrankie Laineが発表し、
1964年にはGene Pitneyがカヴァー。
その16年後、1980年にシンディがソロでデビューする前のロカビリーバンド:
Blue Angelsでカヴァーをリリース。
そして1994年に現在のヴァージョンへと至る。
30年越しのメロディなのだ。
こちらはスタジオ版。
前二者のヴァージョンも素晴らしいが、
シンディの手に渡ったときの昇華具合はすごいものがある。
メロディをいじくりまくっていて、
一本道で昇り詰めていく連続感が巧妙に作られている。
(スタジオ版の2分3秒に一瞬挟む"wowow"とか、2分11秒のdarlingとか、)
しかもそれを、極めて無邪気にやっているような印象もある。
+++
:
1994年当時、15歳だった僕を含めて田舎の中高生までにもバカ売れした
彼女のベスト盤:『TWELVE DEADLY CYNS...AND THEN SOME』において、
『Girls Just Want to Have Fun』も
『Time after Time』も
『True Colors』も差し置いてこの曲が冒頭を飾る理由は、
彼女の音楽活動の原点の曲であるとともに、
商業的なことは無関係で、確固たる手ごたえがあったのだろうと思う。
このアルバムは夜更かしを覚えた頃、深夜にテスト勉強の傍らよく掛けたものだ。
『All through the night』
『I Drove All Night』
『The World Is Stone』
は世界に僕しかいない、冬口の静かな深夜によく似合う曲だった。
80年代特有のリヴァーヴ掛かりまくりで奥行きありまくりな音と、
シンディの特徴でもあるフラットに長ーーーーーーく続く長音と、
その後に細~か~く揺~さ~ぶ~る~ヴィヴラートの掛け合わせが、
まだまだ世界には時間があるような感覚を与えてくれて、楽しかった。
そして朝方、夜が白む頃の時間帯に流れる
『I'm gonna be strong』の恍惚感は何にも変えがたいものがあった。
寄り道せずに一本道で上っていくこの曲はなんとなく日の出のイメージで、
自分にとって縁起の良い曲、みたいな感じもあったんだけど、
それよりも、歌というものの原点が見えるような気がしていた。
というもの、僕は基本的にポリフォニー (複数声部)の複雑な絡みが好きなのだが、
モノフォニー(単声部)でここまで愛せる旋律は生まれて初めてだったから。
また何度も言っているように、一本道で昇るという構成で、ちょこざいな企みがないこと。
メタカヴァーという複雑な経緯を辿りながら、
複雑なまま、歌のオリジンに回帰しているような不思議な表情を感じたのだ。
歌のオリジンって?
+++
現在における世界最古の歌は、シリアはウガリットから出土した
約3400年前の粘土板にフルリ語で書かれていたものらしい。
なんとびっくり、ポリフォニー。クラスは2つあるとのこと。
しかしそれが2つのメロディーが絡むものなのか、
メロディとリズムなのかはわかっていない。
完全な形で残っている楽曲、つまり再現可能な世界最古の歌は、
トルコはアイドゥンで発見された『セイキロスの墓碑銘』である。
こちらはモノフォニー。
紀元前2世紀頃から紀元後1世紀頃に作られたもので、歌詞もある。
生きている間は輝いていてください
思い悩んだりは決してしないでください
人生はほんの束の間ですから
そして時間は奪っていくものですから
今の我々にとって世界最古のものが「時間のなさ」を歌っているとは皮肉だね。
メロディは検索すれば聴けます。
『セイキロスの墓碑銘』 現代譜
村上春樹:『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では
影を剥がされた「僕」が人間存在を取り戻す象徴として、歌を思い出すシーンがある。
『新世紀エヴァンゲリオン』でも、第17使徒:タブリスこと渚カヲルくんが言う。
「歌はいいね。歌は人の心を潤してくれる。リリン(人間)の生んだ文化の極みだよ。」
同世代のアーティスト:高木正勝氏は『Tai Rei Tei Rio』でこの命題に迫ろうとしている。
余談だが、僕は彼のライブアルバム:『Private/Public』に収録されている
10分21秒の大曲:『Rama』が、最もその領域に近づいている極みだと思っている。
音楽でここまで感動したのは本当に久しぶりだ。
思うに『I'm gonna be strong』も、『セイキロスの墓碑銘』も、
歌も、文化も、世界が思い通りにならないから歌うのだ。
彼/彼女と別れないといけないこと、人生が儚いこと、
時間になされるがままの世界において、人間が時間で抗う手段なのだ。
短く限られた時間のなかで生命維持の時間をふと忘れ、
いや、時間そのものを忘れ、歌に大事な大事な時間をくれてやる。
歌に命を燃やして、歌に投資するのだ。
+++
今のシンディが、アカペラで『I'm gonna be strong』を歌っている。
ラストのcry三連発を生で聴いている人たちが上げる声は、
歓声というよりは悲鳴に近い。
僕だって生で聴いたら、間違いなく悲鳴を上げるだろう。
これを歌っているシンディは、55歳である。
まだまだ、時間はあるよね。
線は引くもの
100年に1度くらい絵を描きます。

『crack』 / 『cruck』
どうなっているのかというと、

こうなってて…

こうなっています。
大きいサイズのものはこちらに展示しています。
実物サイズはφ250mmくらい。
ともに6時間くらい、インクペンでしこしこと。
以前、2009.12.19.mashcomix10周年記念パーティのエントリを
読んでくださった方はお気づきかと思いますが、
ライブペインティングでのひび割れドローイングを応用してます。
これをつくるタイミングの機会を与えてくださったのは、
QR CODE MUSEUM (キューアールコード美術館)を主催したg86の皆さん。

QR CODE MUSEUM
前回からドカンとディベロップしたこの企画に参加作家としてお声掛けいただき、
都市空間に浮遊するQRコードから絵を閲覧するというこのコンセプトに即して
何か新しい絵を作れないものか、と考えてみたのだが…
今回のQR CODE MUSEUMでは、恐らくターゲット層で爆発的にユーザーの増えた
iPhoneでの閲覧がメインになるだろう。
そこに照準を合わせると、画面を人差し指と親指でつまむようになぞることでブラウザや画像を拡大縮小する、
というiPhone独特のアクションをしながら鑑賞されることになるだろう。
このどこか経験的ながら新鮮で独特なジェスチャー自体の面白さに気付けるようなメタ絵画、ということで、
拡大縮小することが楽しいフラクタルモデルでありながら、
パンして移動すると部分部分で明らかに様相の違うフリーライン、という複雑な表情を作った。
なんとなくせっかく買ったiPhoneの画面がビッシビシにひび割れてる感が出ると良いかな、
なんてことも思ったが、さすがにそうは見えんか。
そんなわけで、iPhone用は
こちら(『crack』)とこちら(『cruck』)。
待ち受けにじゃんじゃん使ってやって下さい。
ちなみに僕はiPhone持ってません。
+++
さて、100年前はどんな絵を描いたかというと…。

これは2時間半掛けて描いた一筆書きの絵。
300mm/1秒として考えれば、この線を全部ほどくと2.7kmの長さがある。
というわけでここ200年、
インクペンを持って線を引くことのみでつくる絵を描いている。
いかにインクを減らすか、みたいなスポーツになりつつあるが…
これらは線の引き方を一種類に限定して、ひたすら連続させたものの最終形態の違いを楽しむ、
というような類のもので、それはまさしくドローイング・スポーツなわけだが、
そういえば日本語も英語も、線を押すとは言わない。
線は引くものだ。
line is a drawing thing.
引くということは、自分の体の方へ寄せるということだ。
つまり絵は自分から生まれ得る情報を世界へ押し出しているように思えるが、
実は世界を自分へ引き寄せて取り込んでいる作業なのだろう。
言葉遊びをするならば。
いやしかし、一筆書きとはまた真逆の操作、
ひび割れ目3本/1秒 = 計64800本/6時間 の線を引いていると、
そのメルヘンに妙な説得力を感じざるを得ない。
線や言葉で世界を分割する行為は、引き寄せる運動であり、現実への肯定的態度なのだ。
現実よ、いいから俺に入ってこいと。
この、恥ずかしくて人に言えない現実への陶酔感を、
ただただ線のかたまりの迫力に全て置き換えたい。
そんな変換方法でしか、あまりに陶酔が大きすぎて、恥ずかしすぎて、人に伝えられない。
+++
ここ半年、実施設計で気が遠くなるほどの無数の図面の線を引いている。
上記のドローイング・スポーツと全く同様、
これから自分が立つであろう空間に対する抑えられない偏執的な陶酔を、
実施設計図でしか恥ずかしくて伝えられないような思いで、線をひたすらに引いている。
そして何より、実施設計図でしか、この陶酔の巨大さを丸々担ってくれない。
圧倒的に巨大な陶酔と構想は、圧倒的に細かくて緻密な単位の集合でしか定着し得ないのだ。
これは先日のエントリ:『文字の羅列』の最後に書いている部分と同じお話。
G-tokyo2010の青木淳+杉本博司対談で印象的だった
「現場に貼り付かない建築家は楽だな!」
という杉本博司氏の挑発的な言葉に対する僕なりの答えが、これに当たる。
「全てがある」と思われている現場では絶対に担えない空間への興奮と陶酔が、
実は机上の無表情でモノクロな線にあるのだ。
物性だらけのあまりに現実的な場所では、どうしても取りこぼしてしまう想像力がある。
物性を知り尽くして空間を設計するのが建築家と教えられてきたが、
物性を超えたところでも、なお空間を想像するのが建築家じゃなかろうか。
青木淳氏は杉本氏の問いに対し、
図面を「建築の抽象物」として可能性を担うものと答えていたが、
僕にとって図面は「建築以上の高解像度な建築」であるがゆえにこの可能性を担っていると考える。
建築の方が、図面の抽象物なのだ。
『crack』 / 『cruck』
どうなっているのかというと、
こうなってて…
こうなっています。
大きいサイズのものはこちらに展示しています。
実物サイズはφ250mmくらい。
ともに6時間くらい、インクペンでしこしこと。
以前、2009.12.19.mashcomix10周年記念パーティのエントリを
読んでくださった方はお気づきかと思いますが、
ライブペインティングでのひび割れドローイングを応用してます。
これをつくるタイミングの機会を与えてくださったのは、
QR CODE MUSEUM (キューアールコード美術館)を主催したg86の皆さん。
QR CODE MUSEUM
前回からドカンとディベロップしたこの企画に参加作家としてお声掛けいただき、
都市空間に浮遊するQRコードから絵を閲覧するというこのコンセプトに即して
何か新しい絵を作れないものか、と考えてみたのだが…
今回のQR CODE MUSEUMでは、恐らくターゲット層で爆発的にユーザーの増えた
iPhoneでの閲覧がメインになるだろう。
そこに照準を合わせると、画面を人差し指と親指でつまむようになぞることでブラウザや画像を拡大縮小する、
というiPhone独特のアクションをしながら鑑賞されることになるだろう。
このどこか経験的ながら新鮮で独特なジェスチャー自体の面白さに気付けるようなメタ絵画、ということで、
拡大縮小することが楽しいフラクタルモデルでありながら、
パンして移動すると部分部分で明らかに様相の違うフリーライン、という複雑な表情を作った。
なんとなくせっかく買ったiPhoneの画面がビッシビシにひび割れてる感が出ると良いかな、
なんてことも思ったが、さすがにそうは見えんか。
そんなわけで、iPhone用は
こちら(『crack』)とこちら(『cruck』)。
待ち受けにじゃんじゃん使ってやって下さい。
ちなみに僕はiPhone持ってません。
+++
さて、100年前はどんな絵を描いたかというと…。
これは2時間半掛けて描いた一筆書きの絵。
300mm/1秒として考えれば、この線を全部ほどくと2.7kmの長さがある。
というわけでここ200年、
インクペンを持って線を引くことのみでつくる絵を描いている。
いかにインクを減らすか、みたいなスポーツになりつつあるが…
これらは線の引き方を一種類に限定して、ひたすら連続させたものの最終形態の違いを楽しむ、
というような類のもので、それはまさしくドローイング・スポーツなわけだが、
そういえば日本語も英語も、線を押すとは言わない。
線は引くものだ。
line is a drawing thing.
引くということは、自分の体の方へ寄せるということだ。
つまり絵は自分から生まれ得る情報を世界へ押し出しているように思えるが、
実は世界を自分へ引き寄せて取り込んでいる作業なのだろう。
言葉遊びをするならば。
いやしかし、一筆書きとはまた真逆の操作、
ひび割れ目3本/1秒 = 計64800本/6時間 の線を引いていると、
そのメルヘンに妙な説得力を感じざるを得ない。
線や言葉で世界を分割する行為は、引き寄せる運動であり、現実への肯定的態度なのだ。
現実よ、いいから俺に入ってこいと。
この、恥ずかしくて人に言えない現実への陶酔感を、
ただただ線のかたまりの迫力に全て置き換えたい。
そんな変換方法でしか、あまりに陶酔が大きすぎて、恥ずかしすぎて、人に伝えられない。
+++
ここ半年、実施設計で気が遠くなるほどの無数の図面の線を引いている。
上記のドローイング・スポーツと全く同様、
これから自分が立つであろう空間に対する抑えられない偏執的な陶酔を、
実施設計図でしか恥ずかしくて伝えられないような思いで、線をひたすらに引いている。
そして何より、実施設計図でしか、この陶酔の巨大さを丸々担ってくれない。
圧倒的に巨大な陶酔と構想は、圧倒的に細かくて緻密な単位の集合でしか定着し得ないのだ。
これは先日のエントリ:『文字の羅列』の最後に書いている部分と同じお話。
G-tokyo2010の青木淳+杉本博司対談で印象的だった
「現場に貼り付かない建築家は楽だな!」
という杉本博司氏の挑発的な言葉に対する僕なりの答えが、これに当たる。
「全てがある」と思われている現場では絶対に担えない空間への興奮と陶酔が、
実は机上の無表情でモノクロな線にあるのだ。
物性だらけのあまりに現実的な場所では、どうしても取りこぼしてしまう想像力がある。
物性を知り尽くして空間を設計するのが建築家と教えられてきたが、
物性を超えたところでも、なお空間を想像するのが建築家じゃなかろうか。
青木淳氏は杉本氏の問いに対し、
図面を「建築の抽象物」として可能性を担うものと答えていたが、
僕にとって図面は「建築以上の高解像度な建築」であるがゆえにこの可能性を担っていると考える。
建築の方が、図面の抽象物なのだ。
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