プロフィール

matsushimaJP

カレンダー

2010/09

8月 < > 10月

S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のエントリー

10/08/24 23:34
摂氏330度
10/08/10 03:00
指切り
10/06/30 23:11
逸脱のスキル
10/05/18 03:25
ノスタルジー・リセッテ...
10/04/16 23:57
人間と歌
10/04/08 03:32
線は引くもの
10/03/19 04:17
川久保玲の怒り
10/02/26 21:35
文字の羅列
10/02/07 16:20
LIVE ROUNDABOUT JOURNA...
10/02/07 16:05
LIVE ROUNDABOUT JOURNA...

最近のコメント

最近のトラックバック

02月 08日 07:10   /  FDmountwill_millsの日記
[社会] #LRAJ2010 Ust配信 PCの前でぶっ続けで見た

ヒット数

  • 本日: 217 hits
  • 累計: 26168 hits
  • ※過去30日の累計を
    表示いたします。

RSS

rss1.0

rss2.0

逸脱のスキル

Bookmark and Share
文楽を見に行ったのだ。

文楽の公演はとても長い。
『新版歌祭文』という演目のなかの
「野崎村の段」「油屋の段」「蔵場の段」
という3/5を上演して、なんと4時間。
これだけ浸かってしまうとさすがにしばらくはあちら側から帰ってこれない。

おかげさまでその後数日間、事務所で
「松島さん、お電話です」と呼ばれるとつい
「アイナ、アイアイ」と義太夫節の裏声で返事をしたり、
何かちょっとでもつまづくと
「もう死ぬしかなりませぬ…」と井戸に身を投げたりした。(ウソ)





文楽人形


文楽人形は、それはそれはスタイリッシュである。
全身のスケールは実のところ実際の人間とそこまで変わらないのだが
顔が握りこぶし程に小さく、手足はスラリと長く、
それをとんでもなく細やかに動かすもんだから、もうなんだか呆れるくらいに美しい。

人形は三人遣いで操る。
主遣い(おもづかい)が首と右手、左遣いが左手、足遣いが脚を担当する。
その三者が、呼吸を、なんてレベルどころじゃない次元の焦点を合わせて、
所作仕草、心理心情、時間空間を、それはそれは細やかに表現するのである。


人形の動きに乗せる太夫(だゆう)という語り部が唱える、義太夫節の響きは本当にミステリアスだ。
ト書き、モノローグ、ダイアローグ、BGM、全てを統合した不思議な日本語を、
独特のリズムでひたすら途切れなく唱えるのである。
その場その時に爆発的に生じる多重な意味を
たったひとつの音声で纏め上げて表現していることがものすごく身体的に理解できて心底驚かされた。
このおっさん達とんでもないことをしているな、と。
この音声こそが演じる人形の振動と鑑賞する人間の振動をつなぎ、
人形と人間の身体をつないでいたのだった。



文楽人形のかしらはスターシステムとなっていて、
立役(男役)では源太、文七、与勘平…
女形では娘、婆、傾城(けいせい)…
といった名前の定番のかしらがある。

それぞれ色男、敵役、暴れん坊、おぼこ、遊女といったような属性を帯びていて
これに演目ごとの配役がなされている。
つまりは属性人形のレイアウトが、文楽の「お話の形式」を促しているわけだ。
そうして「お約束」をふんだんに孕んだ極上のエンターテイメントが形成される。


上記のかしらとは別に、特定の演目専用の特殊なかしらもある。
それらは大概仕掛けが施されていて、なかにはかなり不気味な表情を持ったものもいる。

その代表的なものが、『ガブ』と呼ばれる変化かしらである。




ガブ首


ガブッと口を開けることからこういう名称なのだそうだが、
人が鬼になる推移、常軌を逸した表情としてこれ以上ない表現力を持った顔だ。トラウマになりかねない。
目が見開き、口が裂け、角が出る、という、特定部位の数cmの変化が
これほどまでに強いメッセージ力を持つのである。


これはアトリエ・ワンの著書: 『空間の響き/響きの空間』のなかの
「お面」の章で語られていた「定型と逸脱の関係」、

-人間の顔という定型を成立させている普遍の配置のなかで励起された、特定項目の想像的な振る舞い-

の瑞々しい実例だ。

文楽人形の顔の小ささと手足の長さはこのことを好意的に用いた方法の賜物であり、
ガブの顔の変化は嫌意的に用いた最たる方法だと言える。



ガブに限らず、人形は人間をディフォルマライズする以上、
「身体」という人間が最も敏感に感じる「自然の定型」から必然的に逸脱してしまう存在である。

いつの時代にもどの国でも人間は人形をつくる習性があるようだが、
(ユダヤ・イスラム圏では禁止されているが -つまり禁止しないとつくってしまうわけだ-)
その動機のひとつに、必然的な逸脱を導くことによって、
背後にある人間の輪郭(=存在感)という定型を際立たせることが何よりも刺激的だった、
ということが挙げられるだろう。


+++


さて人形とくれば、ハンス・ベルメールについて語らざるを得ない。



Hans Bellmer:『Les jeux de la Poupée (人形の遊び)』(1949)


ハンス・ベルメールは、日本では球体関節人形の始祖として知られるシュルレアリストだが、
澁澤龍彦氏よって紹介されたためか、少々色が付き過ぎている感がある。

ベルメールに影響を受けたとしている日本人人形作家たちの球体関節人形の作品は、
正直言ってベルメール自身の模索とはかけ離れた
表層的なレベルへ留まったままに習作している印象を受ける。
同時にベルメールについて語る言葉が、いまだ澁澤的なものしか見つからないのも大変もどかしい。
彼の著書 : 『イマージュの解剖学』にある彼自身の言葉が抽象的で難解なことも、それを助長してしまう。


僕はそのような文脈と無関係に、浪人中なぜか辿り着いた町屋図書館で
たまたまベルメールの作品集を手に取ったことでその世界を知った。
全身感電したような衝撃を受けて、その日からベルメールの著作を探す日々が始まった。


彼の作る、そして描く、身体のラインの美しさは
僕の知る限りの古今東西、歴史上のどんな大芸術家も敵わない。
桁違いの技術とセンス、ただ単純に、そこに惹かれた。
彼独特の「デッサン的でない」デッサン、エンジニア的手法による異常な精度のドローイングスキルは、
僕が何度も見たことのあるものを、全く見たことがないレベルで描写していたのである。


たしかにベルメールからピュグマリオニズム、エロティシズムを漂白することは難しい。
しかし彼の人形が放つ圧倒的な存在感による誘惑をひとまず我慢して、
その人形がおさまっている写真の構図、色の完成度の高さに改めて注目すると、
そして人形よりもはるかに点数の多いドローイング群を片っ端から眺めると、
何かもっとラディカルな次元に対する試みと、現代的な地平が見えてくる。
今こそベルメールの作品は、澁澤氏の文学性を乗り越えることが急務なのである。



人形でもドローイングでも、ベルメールの恐ろしさは、
前述の「ガブ」や「お面」に見られる「部位の肥大化/誇張」
とはまた別のディフォルマライズによって、
骨、肉、脂肪の作り出すラインの魅力を犯罪的なレベルにまで引き上げることにある。

その手法とは、中途半端にバラして再構成すること。
「遊び」と表現される人形の解体と部位のリ・レイアウト、
そして肉体ではない「物」との混合並列は、
澁澤的な怪しくて猟奇的な臭みを過剰に帯びながらも、
肉体につきまとう経験情報を置き去りにして「輪郭」だけをダイレクトに抜き出し、
その魅力をこれ以上なく讃えている。



Hans Bellmer:『Rose ou Verte la Nuit (夜開く薔薇)』(1945)


更にベルメールの試みはラインの解体にまで向かう。
豊かなラインそのものもレンガのような中途半端な単位の「物」の積分とすることで
線を引く作業に対する「遊び」をもメタに組み込んでしまう。(cf. 『線は引くもの』
そしてその積分ラインが、やはり本来のラインの肉感と緊張感をとことん際立たせるのである。

それはまるで人類の輪郭、存在感をリセットするかのような壮大なチャレンジに映る。



Hans Bellmer and Unica Zurn ,rue Mouffetard, Paris.(1955)


彼の唱える『イマージュの解剖学』とは、この試みにほかならない。


+++


-意味生成のメカニズムには背景が必要で、目の前にある形に対して、
 参照としての定型や類型が成立していることが欠かせない。-

アトリエ・ワン:『空間の響き/響きの空間』 「お面」 より抜粋



定型が強く普遍的であるほどに逸脱のメッセージ性は強度を持つが、
そこにはとことんセンシティヴな度合操作が求められる。
異常事態であることを人間が認識するには、
同時に普通の事態も孕んでいなければならないからだ。
突き抜けることを意識し過ぎてそこを見落としたとき、あっという間に試みはキッチュに陥る。

逸脱という言葉を解体すれば、「逸れて脱っする」、
つまりこの言葉自体が、定型の輪郭の存在感を増す仕掛けを持っているのである。


今月のAAR特集において紹介されている
中村竜治氏の『とうもろこし畑』小山泰介氏の写真作品は、
誰もが肌(表層)で得るほどに普遍的な情報である
「重力」、「マテリアリティ」に対するセオリー感覚から見事に逸脱する素晴らしいスキルが発見できる。


そして建築においてはもうひとつ、「慣習」という重要な経験情報がある。

「重力」と「マテリアリティ」という普遍性に挑む驚きに加えて、
この「慣習」という社会性を帯びたわずかに動的な経験要素に対する逸脱へもチャレンジすることで、
ようやっと「かたちそのもので人を感動させる」という、
極めて表層的な感動のレベルへ辿り着けるような気がしている。


表層は、とてつもなく遠い位置にある。



出展:
文楽人形の画像はwikipediaより。
ガブ首の画像は 齋藤清二郎:『文楽首の研究』より。
Hans Bellmer の画像は Peter webb with Robert Short:『HANS BELLMER』より。

みんなからのコメント

トラックバック

この記事のトラックバックURL