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- 02月 08日 07:10 / FDmountwill_millsの日記
- [社会] #LRAJ2010 Ust配信 PCの前でぶっ続けで見た
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表示いたします。
線は引くもの
100年に1度くらい絵を描きます。

『crack』 / 『cruck』
どうなっているのかというと、

こうなってて…

こうなっています。
大きいサイズのものはこちらに展示しています。
実物サイズはφ250mmくらい。
ともに6時間くらい、インクペンでしこしこと。
以前、2009.12.19.mashcomix10周年記念パーティのエントリを
読んでくださった方はお気づきかと思いますが、
ライブペインティングでのひび割れドローイングを応用してます。
これをつくるタイミングの機会を与えてくださったのは、
QR CODE MUSEUM (キューアールコード美術館)を主催したg86の皆さん。

QR CODE MUSEUM
前回からドカンとディベロップしたこの企画に参加作家としてお声掛けいただき、
都市空間に浮遊するQRコードから絵を閲覧するというこのコンセプトに即して
何か新しい絵を作れないものか、と考えてみたのだが…
今回のQR CODE MUSEUMでは、恐らくターゲット層で爆発的にユーザーの増えた
iPhoneでの閲覧がメインになるだろう。
そこに照準を合わせると、画面を人差し指と親指でつまむようになぞることでブラウザや画像を拡大縮小する、
というiPhone独特のアクションをしながら鑑賞されることになるだろう。
このどこか経験的ながら新鮮で独特なジェスチャー自体の面白さに気付けるようなメタ絵画、ということで、
拡大縮小することが楽しいフラクタルモデルでありながら、
パンして移動すると部分部分で明らかに様相の違うフリーライン、という複雑な表情を作った。
なんとなくせっかく買ったiPhoneの画面がビッシビシにひび割れてる感が出ると良いかな、
なんてことも思ったが、さすがにそうは見えんか。
そんなわけで、iPhone用は
こちら(『crack』)とこちら(『cruck』)。
待ち受けにじゃんじゃん使ってやって下さい。
ちなみに僕はiPhone持ってません。
+++
さて、100年前はどんな絵を描いたかというと…。

これは2時間半掛けて描いた一筆書きの絵。
300mm/1秒として考えれば、この線を全部ほどくと2.7kmの長さがある。
というわけでここ200年、
インクペンを持って線を引くことのみでつくる絵を描いている。
いかにインクを減らすか、みたいなスポーツになりつつあるが…
これらは線の引き方を一種類に限定して、ひたすら連続させたものの最終形態の違いを楽しむ、
というような類のもので、それはまさしくドローイング・スポーツなわけだが、
そういえば日本語も英語も、線を押すとは言わない。
線は引くものだ。
line is a drawing thing.
引くということは、自分の体の方へ寄せるということだ。
つまり絵は自分から生まれ得る情報を世界へ押し出しているように思えるが、
実は世界を自分へ引き寄せて取り込んでいる作業なのだろう。
言葉遊びをするならば。
いやしかし、一筆書きとはまた真逆の操作、
ひび割れ目3本/1秒 = 計64800本/6時間 の線を引いていると、
そのメルヘンに妙な説得力を感じざるを得ない。
線や言葉で世界を分割する行為は、引き寄せる運動であり、現実への肯定的態度なのだ。
現実よ、いいから俺に入ってこいと。
この、恥ずかしくて人に言えない現実への陶酔感を、
ただただ線のかたまりの迫力に全て置き換えたい。
そんな変換方法でしか、あまりに陶酔が大きすぎて、恥ずかしすぎて、人に伝えられない。
+++
ここ半年、実施設計で気が遠くなるほどの無数の図面の線を引いている。
上記のドローイング・スポーツと全く同様、
これから自分が立つであろう空間に対する抑えられない偏執的な陶酔を、
実施設計図でしか恥ずかしくて伝えられないような思いで、線をひたすらに引いている。
そして何より、実施設計図でしか、この陶酔の巨大さを丸々担ってくれない。
圧倒的に巨大な陶酔と構想は、圧倒的に細かくて緻密な単位の集合でしか定着し得ないのだ。
これは先日のエントリ:『文字の羅列』の最後に書いている部分と同じお話。
G-tokyo2010の青木淳+杉本博司対談で印象的だった
「現場に貼り付かない建築家は楽だな!」
という杉本博司氏の挑発的な言葉に対する僕なりの答えが、これに当たる。
「全てがある」と思われている現場では絶対に担えない空間への興奮と陶酔が、
実は机上の無表情でモノクロな線にあるのだ。
物性だらけのあまりに現実的な場所では、どうしても取りこぼしてしまう想像力がある。
物性を知り尽くして空間を設計するのが建築家と教えられてきたが、
物性を超えたところでも、なお空間を想像するのが建築家じゃなかろうか。
青木淳氏は杉本氏の問いに対し、
図面を「建築の抽象物」として可能性を担うものと答えていたが、
僕にとって図面は「建築以上の高解像度な建築」であるがゆえにこの可能性を担っていると考える。
建築の方が、図面の抽象物なのだ。

『crack』 / 『cruck』
どうなっているのかというと、

こうなってて…

こうなっています。
大きいサイズのものはこちらに展示しています。
実物サイズはφ250mmくらい。
ともに6時間くらい、インクペンでしこしこと。
以前、2009.12.19.mashcomix10周年記念パーティのエントリを
読んでくださった方はお気づきかと思いますが、
ライブペインティングでのひび割れドローイングを応用してます。
これをつくるタイミングの機会を与えてくださったのは、
QR CODE MUSEUM (キューアールコード美術館)を主催したg86の皆さん。

QR CODE MUSEUM
前回からドカンとディベロップしたこの企画に参加作家としてお声掛けいただき、
都市空間に浮遊するQRコードから絵を閲覧するというこのコンセプトに即して
何か新しい絵を作れないものか、と考えてみたのだが…
今回のQR CODE MUSEUMでは、恐らくターゲット層で爆発的にユーザーの増えた
iPhoneでの閲覧がメインになるだろう。
そこに照準を合わせると、画面を人差し指と親指でつまむようになぞることでブラウザや画像を拡大縮小する、
というiPhone独特のアクションをしながら鑑賞されることになるだろう。
このどこか経験的ながら新鮮で独特なジェスチャー自体の面白さに気付けるようなメタ絵画、ということで、
拡大縮小することが楽しいフラクタルモデルでありながら、
パンして移動すると部分部分で明らかに様相の違うフリーライン、という複雑な表情を作った。
なんとなくせっかく買ったiPhoneの画面がビッシビシにひび割れてる感が出ると良いかな、
なんてことも思ったが、さすがにそうは見えんか。
そんなわけで、iPhone用は
こちら(『crack』)とこちら(『cruck』)。
待ち受けにじゃんじゃん使ってやって下さい。
ちなみに僕はiPhone持ってません。
+++
さて、100年前はどんな絵を描いたかというと…。

これは2時間半掛けて描いた一筆書きの絵。
300mm/1秒として考えれば、この線を全部ほどくと2.7kmの長さがある。
というわけでここ200年、
インクペンを持って線を引くことのみでつくる絵を描いている。
いかにインクを減らすか、みたいなスポーツになりつつあるが…
これらは線の引き方を一種類に限定して、ひたすら連続させたものの最終形態の違いを楽しむ、
というような類のもので、それはまさしくドローイング・スポーツなわけだが、
そういえば日本語も英語も、線を押すとは言わない。
線は引くものだ。
line is a drawing thing.
引くということは、自分の体の方へ寄せるということだ。
つまり絵は自分から生まれ得る情報を世界へ押し出しているように思えるが、
実は世界を自分へ引き寄せて取り込んでいる作業なのだろう。
言葉遊びをするならば。
いやしかし、一筆書きとはまた真逆の操作、
ひび割れ目3本/1秒 = 計64800本/6時間 の線を引いていると、
そのメルヘンに妙な説得力を感じざるを得ない。
線や言葉で世界を分割する行為は、引き寄せる運動であり、現実への肯定的態度なのだ。
現実よ、いいから俺に入ってこいと。
この、恥ずかしくて人に言えない現実への陶酔感を、
ただただ線のかたまりの迫力に全て置き換えたい。
そんな変換方法でしか、あまりに陶酔が大きすぎて、恥ずかしすぎて、人に伝えられない。
+++
ここ半年、実施設計で気が遠くなるほどの無数の図面の線を引いている。
上記のドローイング・スポーツと全く同様、
これから自分が立つであろう空間に対する抑えられない偏執的な陶酔を、
実施設計図でしか恥ずかしくて伝えられないような思いで、線をひたすらに引いている。
そして何より、実施設計図でしか、この陶酔の巨大さを丸々担ってくれない。
圧倒的に巨大な陶酔と構想は、圧倒的に細かくて緻密な単位の集合でしか定着し得ないのだ。
これは先日のエントリ:『文字の羅列』の最後に書いている部分と同じお話。
G-tokyo2010の青木淳+杉本博司対談で印象的だった
「現場に貼り付かない建築家は楽だな!」
という杉本博司氏の挑発的な言葉に対する僕なりの答えが、これに当たる。
「全てがある」と思われている現場では絶対に担えない空間への興奮と陶酔が、
実は机上の無表情でモノクロな線にあるのだ。
物性だらけのあまりに現実的な場所では、どうしても取りこぼしてしまう想像力がある。
物性を知り尽くして空間を設計するのが建築家と教えられてきたが、
物性を超えたところでも、なお空間を想像するのが建築家じゃなかろうか。
青木淳氏は杉本氏の問いに対し、
図面を「建築の抽象物」として可能性を担うものと答えていたが、
僕にとって図面は「建築以上の高解像度な建築」であるがゆえにこの可能性を担っていると考える。
建築の方が、図面の抽象物なのだ。
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