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京都工芸繊維大学特別講義
まったくもってお久しぶりです。

名誉あるオフィシャルBlogを担当させていただいていたというのに、更新し忘れることはおろかパスワードすら忘れておりました。。。(猛省)
さて、唐突な告知で恐縮ではありますが、明日(というよりも本日)、京都工芸繊維大学にて特別講義をいたします。
学生向けに多少アレンジしますが、ここ3~4年ぐらいの総集編的にやります。
構造設計に進もうと思っている学生、構造はもういいやと思っている学生、どっちにも聞いておいてもらいたい話をします。
2012年に入り、設計のテーマを少し変えていこうと思って取り組みはじめていますので、今回でお蔵入りする話もあるかと思います。
卒業設計や期末試験が終わって一息つきたい学生さんたちは、ふるってご参加ください。
日時:2012年1月31日(火)午後12時50分~2時20分
会場:東1号館5階501号室
となります。
詳しくは以下URLをご参照ください。
http://aad.kenchiku.kit.ac.jp/ja/newsrelease.php?id=112
名誉あるオフィシャルBlogを担当させていただいていたというのに、更新し忘れることはおろかパスワードすら忘れておりました。。。(猛省)
さて、唐突な告知で恐縮ではありますが、明日(というよりも本日)、京都工芸繊維大学にて特別講義をいたします。
学生向けに多少アレンジしますが、ここ3~4年ぐらいの総集編的にやります。
構造設計に進もうと思っている学生、構造はもういいやと思っている学生、どっちにも聞いておいてもらいたい話をします。
2012年に入り、設計のテーマを少し変えていこうと思って取り組みはじめていますので、今回でお蔵入りする話もあるかと思います。
卒業設計や期末試験が終わって一息つきたい学生さんたちは、ふるってご参加ください。
日時:2012年1月31日(火)午後12時50分~2時20分
会場:東1号館5階501号室
となります。
詳しくは以下URLをご参照ください。
http://aad.kenchiku.kit.ac.jp/ja/newsrelease.php?id=112
Design Relay Talk
1月22日(土)、大阪工業大学にて行われているデザインリレートークという連続講演会にゲストスピーカーとして講演いたします。
デザインリレートークでは、
デザインに境界はあるのか
-領域を横断する思考と試行-
というテーマが掲げられています。
社会では職業としてデザインの専門領域が認識され、大学の学科もそれを前提に、専攻を分かりやすくする為に、建築、プロダクト、ヴィジュアルなど領域に名前をつけています。しかし、「くつろぐ」という行為があって、そのための場所が必要になってからリビングルームという呼称が一般化したように、くつろぐという行為をアフォードするデザインそのものは、領域が定義されるもうひとつ前の位相に存在します。このデザインリレートークでは、おそらく無意識的に、人間の行為に真摯に向き合ってデザインしようとした結果、領域の前提を疑うことになり、そのアウトプットの結果として、領域の枠組みを超えて第一線で活躍されている方をお招きします。領域と呼ばれている前提を疑うだけで、デザインにとどまらず、今見える世界が広くなる。そんなきっかけで、人生も新たなフェーズを迎えるのではないでしょうか。異なった分野を横断しながらも、リレーのように継続し展開するこのセッションは、2010年度・6回開催予定の連続講演会ですので、ぜひともご参加ください。
[デザインリレートーク実行委員会]
2010年は、梅田阪急ビル15階スカイロビーのベンチ『tomarigi』や、生存のエシックス展での『盲目のクライマー/ライナスの散歩』など、建築以外の構造設計も手がけたということもあり、上記のようなテーマに適している人材と考えていただいたのかもしれません。

tomarigi/デザイン:福屋粧子
デザインの対象が、建築物であるか家具等の非建築物であるかで、手順ややることに違いはあるのか?と問われれば、それは「ある」と答えます。
でもデザインをする僕という人間に違いはありませんから。
何が変わり何が変わらぬかは、講演を通じて感じ取っていただきたいところです。
「デザインに境界はあるのか?」
という問いに対する、答えはすでに持っています。
講演がもうすぐありますので、ここでは詳しく書きませんけれど、
僕自身は、境界と呼ばれるものには、あるとすれば2種類あると思っています。
(ひょっとすると、講演当日にはもうちょっと増えているかもしれませんがw)
ま、堅く考え込むような話にするつもりはありません。
学生からは、
「構造って、結構おもろそうやな」
大人な方々からは
「兄ちゃん、おもろいことやってんねやなぁ」
と言ってもらえるようなレクチャーを目指したいと思います。
公開レクチャーですので、大阪工業大学の関係者でなくともご参加いただけます。
また、入場は無料です。
皆様のご来場、心よりお待ちしております。m(_ _)m
2011年1月22日(土) 17:30~19:30 ※会場受付 17:00〜
開催場所:大阪工業大学 大宮キャンパス6号館15F「ルラーシュ」
詳しくは以下のURLをご参照ください。
http://www.oit.ac.jp/drt2010/
デザインリレートークでは、
デザインに境界はあるのか
-領域を横断する思考と試行-
というテーマが掲げられています。
社会では職業としてデザインの専門領域が認識され、大学の学科もそれを前提に、専攻を分かりやすくする為に、建築、プロダクト、ヴィジュアルなど領域に名前をつけています。しかし、「くつろぐ」という行為があって、そのための場所が必要になってからリビングルームという呼称が一般化したように、くつろぐという行為をアフォードするデザインそのものは、領域が定義されるもうひとつ前の位相に存在します。このデザインリレートークでは、おそらく無意識的に、人間の行為に真摯に向き合ってデザインしようとした結果、領域の前提を疑うことになり、そのアウトプットの結果として、領域の枠組みを超えて第一線で活躍されている方をお招きします。領域と呼ばれている前提を疑うだけで、デザインにとどまらず、今見える世界が広くなる。そんなきっかけで、人生も新たなフェーズを迎えるのではないでしょうか。異なった分野を横断しながらも、リレーのように継続し展開するこのセッションは、2010年度・6回開催予定の連続講演会ですので、ぜひともご参加ください。
[デザインリレートーク実行委員会]
2010年は、梅田阪急ビル15階スカイロビーのベンチ『tomarigi』や、生存のエシックス展での『盲目のクライマー/ライナスの散歩』など、建築以外の構造設計も手がけたということもあり、上記のようなテーマに適している人材と考えていただいたのかもしれません。
tomarigi/デザイン:福屋粧子
デザインの対象が、建築物であるか家具等の非建築物であるかで、手順ややることに違いはあるのか?と問われれば、それは「ある」と答えます。
でもデザインをする僕という人間に違いはありませんから。
何が変わり何が変わらぬかは、講演を通じて感じ取っていただきたいところです。
「デザインに境界はあるのか?」
という問いに対する、答えはすでに持っています。
講演がもうすぐありますので、ここでは詳しく書きませんけれど、
僕自身は、境界と呼ばれるものには、あるとすれば2種類あると思っています。
(ひょっとすると、講演当日にはもうちょっと増えているかもしれませんがw)
ま、堅く考え込むような話にするつもりはありません。
学生からは、
「構造って、結構おもろそうやな」
大人な方々からは
「兄ちゃん、おもろいことやってんねやなぁ」
と言ってもらえるようなレクチャーを目指したいと思います。
公開レクチャーですので、大阪工業大学の関係者でなくともご参加いただけます。
また、入場は無料です。
皆様のご来場、心よりお待ちしております。m(_ _)m
2011年1月22日(土) 17:30~19:30 ※会場受付 17:00〜
開催場所:大阪工業大学 大宮キャンパス6号館15F「ルラーシュ」
詳しくは以下のURLをご参照ください。
http://www.oit.ac.jp/drt2010/
snow for the end of the year 2010
京都の大晦日は例年に無い大雪。
振り返れば2010年は
春に「Hedge」(セシルバルモンド)
夏に「とうもろこし畑」(中村竜治)
冬に「雲を積層する」(石上純也)
と、建築家による素敵な展示作品に出会えた1年でもあった。
(セシルの場合は構造家でもあるが。)
特に前エントリーにも記したように、「雲を積層する」には、衝撃を受けた。
これらの作品を振り返ったとき、インパクトや感動のレベルは作品それぞれに違うし、作品の性格も異なるものたちではあるが、その中に、規則性・高密度・緊張感、という共通のキーワードを見出すことは容易なことだと思う。
この樹にもまた同じことを感じた。
この樹(桜)を眺めていて初めて気付いたのだが、桜の枝というものは、わざわざ雪を抱きかかえるような伸び方をしているのだ。主たる枝の軸方向に対し360度の任意の方向に小枝が伸びている訳ではない。(樹のことは詳しくは知らないので推測でしかないが、葉がついた際に、より太陽の光を得るために下に向かうことは無い等、樹にとって何らかの理由があるのだと思う。少なくとも雪を抱えるという目的でそのようになっているとは思いにくい。)
そうした樹木特有の規則が結果的に雪を抱きかかえる状態を作り出した。
太い枝には太さに応じた厚い雪が、細い枝には細さに応じた薄い雪が、フラクタル図像のように展開しながら密度を増していき、見慣れていたはずなのに普段気付くことのなかった樹に潜む規則を露にしながら、全体としての美しさとなり表出した。
雪化粧をしたこの高野川の桜の状態は、この一瞬にしかありえない(京都では何年かに1度しか見せない)姿でもあり、そうした儚さを伴った美しさは、石上展で見た作品の持つ、いまにも崩れ落ちそうな緊張感にも共通している。
そしてまた、シンプルなルールを背後に持ちながら高密度に作られた繊細な美は極めて日本的だとも思う。
2010年を締めくくるに相応しい雪景色であったと思う。
Another scale of achitecture
先日、豊田市美術館にて開催の展覧会
『石上純也 建築のあたらしい大きさ』
を見る機会があったので、そのときの感想を記しておこう。
まず、建築を主戦場にものづくりに携わる一人の人間として、純粋な感動を覚えた。
作品を前にして、心の中で、スタンディングオベーション。
各作品は、その展示室のサイズや巡路までをも見据えた構成で、建築の設計のように、敷地の条件に応じて一つ一つ異なる回答(設計)をしているようでもあった。
とくに階段からの視線が設定されていた「雲を積層する」は素晴らしいものであったと思う。
高さ5mを超える巨大な物体でありながら、俄かに信じることの出来ない極小の部材のみで支持されている。
階段から見下ろすと、何重にも重なりあった白い布の先にうっすらと動く人影。まさに雲の中とはこういう世界なのであろうと気持ちが高ぶる。
さて、白い布をレイヤーとして重なりあわせ雲のような環境や空間を表現するということであれば、天井から吊ることでも実現することは可能であるし、実際その方が設営も容易である。
しかしながら吊ることを拒み「柱」として支持させているのが、この作品の肝であり、それは石上さんがあくまでも建築を作ろうとしているのだ、という意志を端的に表している。
そして受け手である我々もまた試されている。
吊ることで、足元の雑なディテールも解消されたであろうし、もっと美しく作ることもできたはずである。
でも、吊ってしまった場合、それがいかに美しかろうとも、感動は所詮その美しさの分しか得られなかったではないかと思う。美しさと美学は異なる。
まわりくどい表現かもしれないが、私の感動の過半は、綺麗な美しさからくるものではなく、
よくもまぁ、こんな凄いものを作ることができたものだ、という尊敬をともなった感心からくるものである。
日頃「いかにして作るか」ということばかりを考えている私にとっては、眼前にて自立存在していること自体が奇跡でしかなかった。
つまり展示作品がすべて人間の力によってなしとげられた構築物であったが故の感動である。
石上さんも、そうした感動が発生するのを狙っていたのではないかとも思える。
しかしながら、この感動の理由を公にすることは、実は、この展覧会の主人公である石上さんの意図に反することかもしれないのだ。
例を挙げると「雲を積層する」の解説文の末尾に
自然現象と構築物とのあいだに建築のあたらしい可能性があるのではないだろうか。
と記されているのだ。
だが、雲を積層する、地平線をつくる、雨を建てる、は全てまぎれもなく構築物である。
おそらく石上さん本人もこれら作品の製作過程における格闘から十二分すぎるくらいに構築物であると自覚していると思う。それでも、
自然現象と構築物とのあいだ
と、サラッと言ってしまっている。これは作品とは別の次元での、「言葉のデザイン」、である。実態としては構築物でしかないのだから、
構築物を自然現象に摺り合わせていく
という言い方の方が適切である。でも、それではダサくて言う意味がないし、誰もついてこない。
なので、自然現象と構築物とのあいだ、と言葉がデザインされている。
自然現象と構築物とのあいだに建築のあたらしい可能性があるのではないだろうか。
というこのフレーズは、今回、石上さんが言う権利を得てようやく発することが出来た言葉、と言えるかもしれない。
とすると、構築物であることを前提とした感動を述べることは、実は作者の意図とはズレはじめている。
言葉の問題について、今ここで書くと話しの焦点がぼけてしまうので、それはあらためて別の形で記すことにしたいが、なかなか油断ならない。
ただ、今回のような激しく感動するようなものを見せつけられると、動揺してもうオールOKというか、黙るしかない状態になりがちなのだが、
そんな状態でも無条件に言葉を受け入れてはならない、
とだけは言っておきたい。
激しく感動してもなお、デザインはデザイン、技術は技術、言葉は言葉、としてそこにあるものを冷静に捉えられる能力が強く受け手に求められた展覧会だったのではないだろうか。
<各作品に対するメモ>
・雲を積層する
展示室のボリュームに対する作品のボリューム、動線に対する作品の見せ方など、計算されつくした素晴らしい作品
XYZ3次元6方向からの部材をnodeのパーツ(接合部パーツ)の見え方が気になった。それをデザインすることは可能なのか?
床目地に対し、ボリュームが歪んでしまっているのが残念だったが、それがこの作品の構築難易度を物語っていると感じた。
座屈補剛(下3層の層間変形の矯正)のため、角にアクリル板が存在。下部と上部の柱の太さを変えることで対応可能なのか?
建て方手順はどこからスタート?建て逃げ?ユニット連結?積層ではないと思うが。
とにかく素晴らしい作品
・森を計画する
KITE工房の定点観測動画。確かに、森、である。
本作のみが実現プロジェクトであることもあり、模型が急にリアルになるが、それが現実。
他の作品とのギャップ。
・地平線をつくる
作り方がわからない。箱の中にもぐってみたい衝動にかられる。
メッシュは何製?柱は金属っぽいが。。。
メッシュの自重に応じて、水平力が柱頭に作用しているハズだが、柱のみでそれを処理できているとは信じがたいプロポーション。謎。
変な裏技を使っていないことを願う。
・空に住む
製作の苦労が垣間見えるので、敬意を表することはできるが「雲を積層する」や「地平線をつくる」に比べ感動は少ない。
頂部に張った補剛材(引張材)は単に連結するだけならよいが、美術館の壁に頼った時点でアウト。
・雨を建てる
ヴェネチアビエンナーレにて金獅子賞を獲った、「Architecture as Air」との違い。
ヴェネチアの崩壊が、頭を繋いでいたことによる連性(道連れ)型で、1本たりとも誤差を生じさせてはいけない高度な緊張を要求されていたのに比べ、「雨を建てる」において雨は1本1本が独立した事象であり、仮に雑なものが混じっても作品として成立するという意味で、「Architecture as Air」に比べ緊張感が1ランク低く、雨で囲われたSpaceを作ることはできたが、Architectureにまで辿りつけていない。今後の課題。
「雨を建てる」という言葉はとても綺麗だが、前作で「Architecture as Air」と名乗ってしまったことがArchitectureへのハードルを高くしてしまっている。
前作の存在がなければ、あの雨が自立していることだけでも十分に感動できる話なのだけれど、前作で生じた問題を回避・先送りしただけで、克服できておらず、いささか物足りなさを感じた。
(人間はドミノ倒しで感動できる存在であることを思い出した。)
以上、メモ終了
追記
石上さんの作品の多くは、構造家の佐藤淳さんのサポートを受けている(KITE工房とテーブルについては小西泰孝さん)。
そして、佐藤さんの存在なくしては、たどり着いていないであろうモノがほとんどである。
技術難易度や背景のわかる私たち構造サイドの人間は、慣例的に(石上さんの作品という前提ではあるが)佐藤さんの作品という言い方もしている。
そんな、石上作品を石上作品たらしめている佐藤淳さんの生の言葉を聞いてもらう機会を準備しています。
私が、シリーズコーディネータを務めている、Archiforum in OSAKA(http://www.archiforum.jp)にて佐藤さんに講師として登壇していただきます。
石上さんの作品も解説していただくようリクエストとしてありますし、後半の佐藤さんと私との対談の中では、この展覧会で感じたこともどんどん質問していく予定です。
2011年2月26日(土)大阪本町にあります、TOTOテクニカルセンターOSAKAにて17時から
を予定しています。関西地区の方はどうぞお楽しみに。
『石上純也 建築のあたらしい大きさ』
を見る機会があったので、そのときの感想を記しておこう。
まず、建築を主戦場にものづくりに携わる一人の人間として、純粋な感動を覚えた。
作品を前にして、心の中で、スタンディングオベーション。
各作品は、その展示室のサイズや巡路までをも見据えた構成で、建築の設計のように、敷地の条件に応じて一つ一つ異なる回答(設計)をしているようでもあった。
とくに階段からの視線が設定されていた「雲を積層する」は素晴らしいものであったと思う。
高さ5mを超える巨大な物体でありながら、俄かに信じることの出来ない極小の部材のみで支持されている。
階段から見下ろすと、何重にも重なりあった白い布の先にうっすらと動く人影。まさに雲の中とはこういう世界なのであろうと気持ちが高ぶる。
さて、白い布をレイヤーとして重なりあわせ雲のような環境や空間を表現するということであれば、天井から吊ることでも実現することは可能であるし、実際その方が設営も容易である。
しかしながら吊ることを拒み「柱」として支持させているのが、この作品の肝であり、それは石上さんがあくまでも建築を作ろうとしているのだ、という意志を端的に表している。
そして受け手である我々もまた試されている。
吊ることで、足元の雑なディテールも解消されたであろうし、もっと美しく作ることもできたはずである。
でも、吊ってしまった場合、それがいかに美しかろうとも、感動は所詮その美しさの分しか得られなかったではないかと思う。美しさと美学は異なる。
まわりくどい表現かもしれないが、私の感動の過半は、綺麗な美しさからくるものではなく、
よくもまぁ、こんな凄いものを作ることができたものだ、という尊敬をともなった感心からくるものである。
日頃「いかにして作るか」ということばかりを考えている私にとっては、眼前にて自立存在していること自体が奇跡でしかなかった。
つまり展示作品がすべて人間の力によってなしとげられた構築物であったが故の感動である。
石上さんも、そうした感動が発生するのを狙っていたのではないかとも思える。
しかしながら、この感動の理由を公にすることは、実は、この展覧会の主人公である石上さんの意図に反することかもしれないのだ。
例を挙げると「雲を積層する」の解説文の末尾に
自然現象と構築物とのあいだに建築のあたらしい可能性があるのではないだろうか。
と記されているのだ。
だが、雲を積層する、地平線をつくる、雨を建てる、は全てまぎれもなく構築物である。
おそらく石上さん本人もこれら作品の製作過程における格闘から十二分すぎるくらいに構築物であると自覚していると思う。それでも、
自然現象と構築物とのあいだ
と、サラッと言ってしまっている。これは作品とは別の次元での、「言葉のデザイン」、である。実態としては構築物でしかないのだから、
構築物を自然現象に摺り合わせていく
という言い方の方が適切である。でも、それではダサくて言う意味がないし、誰もついてこない。
なので、自然現象と構築物とのあいだ、と言葉がデザインされている。
自然現象と構築物とのあいだに建築のあたらしい可能性があるのではないだろうか。
というこのフレーズは、今回、石上さんが言う権利を得てようやく発することが出来た言葉、と言えるかもしれない。
とすると、構築物であることを前提とした感動を述べることは、実は作者の意図とはズレはじめている。
言葉の問題について、今ここで書くと話しの焦点がぼけてしまうので、それはあらためて別の形で記すことにしたいが、なかなか油断ならない。
ただ、今回のような激しく感動するようなものを見せつけられると、動揺してもうオールOKというか、黙るしかない状態になりがちなのだが、
そんな状態でも無条件に言葉を受け入れてはならない、
とだけは言っておきたい。
激しく感動してもなお、デザインはデザイン、技術は技術、言葉は言葉、としてそこにあるものを冷静に捉えられる能力が強く受け手に求められた展覧会だったのではないだろうか。
<各作品に対するメモ>
・雲を積層する
展示室のボリュームに対する作品のボリューム、動線に対する作品の見せ方など、計算されつくした素晴らしい作品
XYZ3次元6方向からの部材をnodeのパーツ(接合部パーツ)の見え方が気になった。それをデザインすることは可能なのか?
床目地に対し、ボリュームが歪んでしまっているのが残念だったが、それがこの作品の構築難易度を物語っていると感じた。
座屈補剛(下3層の層間変形の矯正)のため、角にアクリル板が存在。下部と上部の柱の太さを変えることで対応可能なのか?
建て方手順はどこからスタート?建て逃げ?ユニット連結?積層ではないと思うが。
とにかく素晴らしい作品
・森を計画する
KITE工房の定点観測動画。確かに、森、である。
本作のみが実現プロジェクトであることもあり、模型が急にリアルになるが、それが現実。
他の作品とのギャップ。
・地平線をつくる
作り方がわからない。箱の中にもぐってみたい衝動にかられる。
メッシュは何製?柱は金属っぽいが。。。
メッシュの自重に応じて、水平力が柱頭に作用しているハズだが、柱のみでそれを処理できているとは信じがたいプロポーション。謎。
変な裏技を使っていないことを願う。
・空に住む
製作の苦労が垣間見えるので、敬意を表することはできるが「雲を積層する」や「地平線をつくる」に比べ感動は少ない。
頂部に張った補剛材(引張材)は単に連結するだけならよいが、美術館の壁に頼った時点でアウト。
・雨を建てる
ヴェネチアビエンナーレにて金獅子賞を獲った、「Architecture as Air」との違い。
ヴェネチアの崩壊が、頭を繋いでいたことによる連性(道連れ)型で、1本たりとも誤差を生じさせてはいけない高度な緊張を要求されていたのに比べ、「雨を建てる」において雨は1本1本が独立した事象であり、仮に雑なものが混じっても作品として成立するという意味で、「Architecture as Air」に比べ緊張感が1ランク低く、雨で囲われたSpaceを作ることはできたが、Architectureにまで辿りつけていない。今後の課題。
「雨を建てる」という言葉はとても綺麗だが、前作で「Architecture as Air」と名乗ってしまったことがArchitectureへのハードルを高くしてしまっている。
前作の存在がなければ、あの雨が自立していることだけでも十分に感動できる話なのだけれど、前作で生じた問題を回避・先送りしただけで、克服できておらず、いささか物足りなさを感じた。
(人間はドミノ倒しで感動できる存在であることを思い出した。)
以上、メモ終了
追記
石上さんの作品の多くは、構造家の佐藤淳さんのサポートを受けている(KITE工房とテーブルについては小西泰孝さん)。
そして、佐藤さんの存在なくしては、たどり着いていないであろうモノがほとんどである。
技術難易度や背景のわかる私たち構造サイドの人間は、慣例的に(石上さんの作品という前提ではあるが)佐藤さんの作品という言い方もしている。
そんな、石上作品を石上作品たらしめている佐藤淳さんの生の言葉を聞いてもらう機会を準備しています。
私が、シリーズコーディネータを務めている、Archiforum in OSAKA(http://www.archiforum.jp)にて佐藤さんに講師として登壇していただきます。
石上さんの作品も解説していただくようリクエストとしてありますし、後半の佐藤さんと私との対談の中では、この展覧会で感じたこともどんどん質問していく予定です。
2011年2月26日(土)大阪本町にあります、TOTOテクニカルセンターOSAKAにて17時から
を予定しています。関西地区の方はどうぞお楽しみに。
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