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BOOK REVIEW:市川紘司による『アルゴリズミック・アーキテクチュア』の書評
今回は東北大学大学院、五十嵐太郎研究室の市川紘司氏による『アルゴリズミック・アーキテクチュア』の書評をお届けしたい。アルゴリズムがある種のリズム=躍動する思考であることを、私は本書評から改めて感じる。なお、本書の書評は、市川氏の個人ブログやTwitter上での言及を拝読した上で、私が、市川氏に依頼したものである。前回の更新以降、市川氏には長らくお付き合いいただいてしまった。お礼申し上げたい。
////////////////////////
書評:
『アルゴリズミック・アーキテクチュア』
コスタス・テルジディス:著
田中浩也:監訳 荒岡紀子+重村珠穂+松川昌平:訳
彰国社、2010
評者:
市川紘司(東北大学大学院)

////////////////////////
■アルゴリズムへの素朴な導入書として
本書はあくまでも建築におけるアルゴリズム系議論への導入基礎テキストとして読まれるべき書物だろう。原著が出されたのはほんの四年前(2006)だが、こうした技術オリエンテッドな議論は日進月歩で更新されていくからだ。というよりも丁寧な記述や簡易なスクリプトのスタディを見るかぎり、そもそもそのように書かれているとも言える(丁寧すぎてまわりくどい箇所もあるが)。えてしてアルゴ「イズム」(Algor-ism)として扱われる日本の文脈を離れて、裸形素朴のアルゴリズムに触れる気持ちで読むくらいがよいと思う。
中心的に提示されるのはコンピュータライゼイションとコンピュテーション、ツールユーザー(デザイナー)とツールメーカー(メタデザイナー)という二種の対立軸である。このとき前者から後者へというパラダイムシフトとして読めそうだが、両者のあいだに位置づけられる「アルゴリズミック・アーキテクチュア」こそが著者の主張としてある。
■曖昧性、複雑性をめぐって
書評者は、本書が新概念としての「アルゴリズミック・アーキテクチュア」をこれまでの建築言語の流れのなかに位置づけようという意図のもと書かれていると解釈している。この前提に立ち、キータームに「他者性」「曖昧性」「複雑性」を挙げ、考えてみる。
「曖昧性」と「複雑性」は本書中のチャプター5と6にそれぞれ対応する。明晰なものからこそ曖昧性は獲得される。単純さからこそ複雑性は獲得される。自然言語だと満足に指し示すことができなかったこれら性質が、アルゴリズムによってはじめて指示&制作可能だとされる。
この二概念は近年の建築が一貫して求めていると言うべき性質でもある。「全体性」よりも「部分」を優先する構成的傾向とも言い換えられるが、これを『建築の複雑性と対立性』(R.ヴェンチューリ、1966)や原広司が1960年代に提案した理論からの流れとして理解することも可能だろう。とくに原は近代建築における「構成」の問題を批判的に考察する最初期の建築家であり、「部分から全体へ」という標語に象徴される彼の問題意識は均質空間の生むファシズム的なものへの空間的アンチテーゼでもあった。対照的にヴェンチューリのそれは、彼自身の述べるとおり「建築形態」に限定されている。
このとき日本=空間、海外=形態という通念的な問題の立て方を反復しているだけではと思われるかもしれない。しかし両者は曖昧性・複雑性を求める点では同根ではあるものの、たしかに微妙に異なるアウトプットがなされているとは言えないだろうか。
日本では曖昧性・複雑性といった概念は、建築を建築外部(コンテクスト論やプログラム論など)と接続するために召喚される場合が多い。たとえば「ゆるやかにつながる空間」云々というのは、単体の建築物内部における空間の関係性へのコメントであると同時に、周辺環境やアクティビティの関係性についてのコメントとしても意味を拡げていると解釈できる。
一方で西欧では、形態のみでそれら性質が完結している感はつよい。いくらアンチモニュメントをその建築(と建築家)が謳っていたとしても建築は日本におけるよりもずいぶん自律している印象を受ける。本書の批判するところのいわゆるブロッブ・アーキテクチュア系がその最たる例だが、実際のところ本書の議論もあくまで「建築形態」をのみ巡ってなされてしまっている。建築を外部から根拠づけるお話は登場しない。
■他者性をめぐって
著者によればコンピュータライゼーションにおいてコンピュータは建築家の拡張された手足でしかないがアルゴリズミック・アーキテクチュアにおいてはそれは「他者」だと言う。
設計プロセスにおいて他者性の確保が重要であるのは言うまでもない。とくに本書のように建築外部の話題に触れない以上、ここで議論される建築には広義の意味での「共感可能性」が必要になってくる。建築は社会的生産物である。それゆえ何らかの方法で社会と接続しなければならない。
単純に考れば、そこには二通りの方法が想定される。ひとつは具体的即物的に社会と闘う方法。もうひとつは感覚や思考の共感によって抽象的次元から社会と接続する方法で、このとき社会は「他者」と呼ばれる概念に抽象化されて扱われるだろう。
さてアントワン・ピコンの序文に「テルジディスが機械の属性であると位置づける『他者性』は、私たち自身の内にも存在する」とある。言うまでもなくこれは無意識を指している。
無意識に着目し、創作プロセスの自動生成をきわめて独特の方法で思考している建築家として青木淳の言葉を引こう。「『私』とは、核がくっきりとしているものではなく、僕を取り巻く他人の欲望が無意識に逆照射された、どこからどこまでが自分で、どこから先が他人かが不分明な、自他のやりとりの偶々の歴史がかたちづくっている動的平衡状態なのです」。それゆえ「『私』の視点だけでつくっても、そこには『使い手』の視点が、じつは色濃く含まれざるをえない」(『建築雑誌2010年3月号』22頁)。
社会的プログラムとは無関係な決定ルールをオーバードライブさせる青木の設計論は、むしろそうすることで「使い手」という名の他者性を獲得するためにこそ採用されている。こうして青木の建築は異質さ/同質さ、親近感/違和感といった(自然言語ではトートロジーに陥る)アンビヴァレントな性質を達成しうる可能性を得る。
青木の言う「使い手の視点」といった性格=他者性をコンピュータは保証し得るだろうか。感性工学の発展はその一策として挙げられよう。あるいは建築家の松川昌平が提唱する「あらゆる建築的情報が生成されるメタバース」も、それがビルディングエレメント論の範疇を跳び越え現象や感情まで網羅されるならば、他者性を仮構することは可能だろう。
■超自律的建築的思考としてのアルゴリズム——建築家不要論の行方
まずもって建築の自律性が先立ち、その枠内において曖昧性や複雑性といった反モダン的な性質が求められ、一方で社会的な回路を保つために他者性への言及がある。本書が描くのは、レム・コールハースやSANAAに代表されるような1990年代的プログラム論の系譜に連ならない建築のあり方である。
拙論『2010年代的住居設計の在り方をめぐる小話』でも触れたとおり、書評者はこうした形式的な思考に興味を引かれている。それゆえ、むろん本書の指し示す建築の方向性には関心がある。
原理的に考えればアルゴリズムは数式(機械言語)だから形態生成のお話も建築外部のお話も一括りに、等価に記述することができる。つまりそこでは極端に自律的に建築を思考することと、建築の外部を思考することが共存可能なのである。この点でアルゴリズミック・アーキテクチュア(の可能性)とブロッブ・アーキテクチュアとはずいぶん異なると言えるだろう。
これは冒頭に記した対立軸において前者に振りきれた場合のいわゆる「建築家不要論」的立場からの考え方とほぼ等しい。しかし以上のように考えてみると、それは「すべてが建築的思考の内に回収される」とパラレルな事態ともなることが分かる。
すべてが建築であることは、すべてが建築でないこととも同じである。つまり「ビルディングへの局限化」と「アーキテクチュアへの先鋭化」という区分は意味がない。この極端に自律的に建築を思考する問題構制は、このような価値選択をそもそも不可能にする点にこそラディカルな転換がありはしないか。

いちかわ・こうじ
1985年東京都生まれ。東北大学大学院都市・建築理論分野在籍。第五回ダイワハウスコンペティション優秀賞受賞。共著に『現代建築家99』(新書館、2010)『都市・建築ガイドブック21世紀』(彰国社、2010)。
twitter : ichikawakoji
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書評:
『アルゴリズミック・アーキテクチュア』
コスタス・テルジディス:著
田中浩也:監訳 荒岡紀子+重村珠穂+松川昌平:訳
彰国社、2010
評者:
市川紘司(東北大学大学院)
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■アルゴリズムへの素朴な導入書として
本書はあくまでも建築におけるアルゴリズム系議論への導入基礎テキストとして読まれるべき書物だろう。原著が出されたのはほんの四年前(2006)だが、こうした技術オリエンテッドな議論は日進月歩で更新されていくからだ。というよりも丁寧な記述や簡易なスクリプトのスタディを見るかぎり、そもそもそのように書かれているとも言える(丁寧すぎてまわりくどい箇所もあるが)。えてしてアルゴ「イズム」(Algor-ism)として扱われる日本の文脈を離れて、裸形素朴のアルゴリズムに触れる気持ちで読むくらいがよいと思う。
中心的に提示されるのはコンピュータライゼイションとコンピュテーション、ツールユーザー(デザイナー)とツールメーカー(メタデザイナー)という二種の対立軸である。このとき前者から後者へというパラダイムシフトとして読めそうだが、両者のあいだに位置づけられる「アルゴリズミック・アーキテクチュア」こそが著者の主張としてある。
■曖昧性、複雑性をめぐって
書評者は、本書が新概念としての「アルゴリズミック・アーキテクチュア」をこれまでの建築言語の流れのなかに位置づけようという意図のもと書かれていると解釈している。この前提に立ち、キータームに「他者性」「曖昧性」「複雑性」を挙げ、考えてみる。
「曖昧性」と「複雑性」は本書中のチャプター5と6にそれぞれ対応する。明晰なものからこそ曖昧性は獲得される。単純さからこそ複雑性は獲得される。自然言語だと満足に指し示すことができなかったこれら性質が、アルゴリズムによってはじめて指示&制作可能だとされる。
この二概念は近年の建築が一貫して求めていると言うべき性質でもある。「全体性」よりも「部分」を優先する構成的傾向とも言い換えられるが、これを『建築の複雑性と対立性』(R.ヴェンチューリ、1966)や原広司が1960年代に提案した理論からの流れとして理解することも可能だろう。とくに原は近代建築における「構成」の問題を批判的に考察する最初期の建築家であり、「部分から全体へ」という標語に象徴される彼の問題意識は均質空間の生むファシズム的なものへの空間的アンチテーゼでもあった。対照的にヴェンチューリのそれは、彼自身の述べるとおり「建築形態」に限定されている。
このとき日本=空間、海外=形態という通念的な問題の立て方を反復しているだけではと思われるかもしれない。しかし両者は曖昧性・複雑性を求める点では同根ではあるものの、たしかに微妙に異なるアウトプットがなされているとは言えないだろうか。
日本では曖昧性・複雑性といった概念は、建築を建築外部(コンテクスト論やプログラム論など)と接続するために召喚される場合が多い。たとえば「ゆるやかにつながる空間」云々というのは、単体の建築物内部における空間の関係性へのコメントであると同時に、周辺環境やアクティビティの関係性についてのコメントとしても意味を拡げていると解釈できる。
一方で西欧では、形態のみでそれら性質が完結している感はつよい。いくらアンチモニュメントをその建築(と建築家)が謳っていたとしても建築は日本におけるよりもずいぶん自律している印象を受ける。本書の批判するところのいわゆるブロッブ・アーキテクチュア系がその最たる例だが、実際のところ本書の議論もあくまで「建築形態」をのみ巡ってなされてしまっている。建築を外部から根拠づけるお話は登場しない。
■他者性をめぐって
著者によればコンピュータライゼーションにおいてコンピュータは建築家の拡張された手足でしかないがアルゴリズミック・アーキテクチュアにおいてはそれは「他者」だと言う。
設計プロセスにおいて他者性の確保が重要であるのは言うまでもない。とくに本書のように建築外部の話題に触れない以上、ここで議論される建築には広義の意味での「共感可能性」が必要になってくる。建築は社会的生産物である。それゆえ何らかの方法で社会と接続しなければならない。
単純に考れば、そこには二通りの方法が想定される。ひとつは具体的即物的に社会と闘う方法。もうひとつは感覚や思考の共感によって抽象的次元から社会と接続する方法で、このとき社会は「他者」と呼ばれる概念に抽象化されて扱われるだろう。
さてアントワン・ピコンの序文に「テルジディスが機械の属性であると位置づける『他者性』は、私たち自身の内にも存在する」とある。言うまでもなくこれは無意識を指している。
無意識に着目し、創作プロセスの自動生成をきわめて独特の方法で思考している建築家として青木淳の言葉を引こう。「『私』とは、核がくっきりとしているものではなく、僕を取り巻く他人の欲望が無意識に逆照射された、どこからどこまでが自分で、どこから先が他人かが不分明な、自他のやりとりの偶々の歴史がかたちづくっている動的平衡状態なのです」。それゆえ「『私』の視点だけでつくっても、そこには『使い手』の視点が、じつは色濃く含まれざるをえない」(『建築雑誌2010年3月号』22頁)。
社会的プログラムとは無関係な決定ルールをオーバードライブさせる青木の設計論は、むしろそうすることで「使い手」という名の他者性を獲得するためにこそ採用されている。こうして青木の建築は異質さ/同質さ、親近感/違和感といった(自然言語ではトートロジーに陥る)アンビヴァレントな性質を達成しうる可能性を得る。
青木の言う「使い手の視点」といった性格=他者性をコンピュータは保証し得るだろうか。感性工学の発展はその一策として挙げられよう。あるいは建築家の松川昌平が提唱する「あらゆる建築的情報が生成されるメタバース」も、それがビルディングエレメント論の範疇を跳び越え現象や感情まで網羅されるならば、他者性を仮構することは可能だろう。
■超自律的建築的思考としてのアルゴリズム——建築家不要論の行方
まずもって建築の自律性が先立ち、その枠内において曖昧性や複雑性といった反モダン的な性質が求められ、一方で社会的な回路を保つために他者性への言及がある。本書が描くのは、レム・コールハースやSANAAに代表されるような1990年代的プログラム論の系譜に連ならない建築のあり方である。
拙論『2010年代的住居設計の在り方をめぐる小話』でも触れたとおり、書評者はこうした形式的な思考に興味を引かれている。それゆえ、むろん本書の指し示す建築の方向性には関心がある。
原理的に考えればアルゴリズムは数式(機械言語)だから形態生成のお話も建築外部のお話も一括りに、等価に記述することができる。つまりそこでは極端に自律的に建築を思考することと、建築の外部を思考することが共存可能なのである。この点でアルゴリズミック・アーキテクチュア(の可能性)とブロッブ・アーキテクチュアとはずいぶん異なると言えるだろう。
これは冒頭に記した対立軸において前者に振りきれた場合のいわゆる「建築家不要論」的立場からの考え方とほぼ等しい。しかし以上のように考えてみると、それは「すべてが建築的思考の内に回収される」とパラレルな事態ともなることが分かる。
すべてが建築であることは、すべてが建築でないこととも同じである。つまり「ビルディングへの局限化」と「アーキテクチュアへの先鋭化」という区分は意味がない。この極端に自律的に建築を思考する問題構制は、このような価値選択をそもそも不可能にする点にこそラディカルな転換がありはしないか。
いちかわ・こうじ
1985年東京都生まれ。東北大学大学院都市・建築理論分野在籍。第五回ダイワハウスコンペティション優秀賞受賞。共著に『現代建築家99』(新書館、2010)『都市・建築ガイドブック21世紀』(彰国社、2010)。
twitter : ichikawakoji
BOOK REVIEW:辻琢磨による『パタン・ランゲージ』の書評
BOOK REVIEW:辻琢磨による『パタン・ランゲージ』の書評
今回は、横浜国立大学建築都市スクールY-GSAを修了したばかりの辻琢磨による書評をお送りする。「現場合わせ」を旨とする403 architectureを共同主宰する辻が、なぜこの古典的著作を手に取るのか。書評を通じて、ともに考えたい。
////////////////////////
書評:『パタン・ランゲージ』(クリストファー・アレグザンダー著、鹿島出版界、1984)
評者:辻 琢磨(403 architecture)
言葉という確かなもの

///////
私は、建築を、空間よりも言語で捉えている。
なぜなら、私にとっての建築は多くの人とのコミュニケーションそれ自体であり、私にとってのコミュニケーションは言語的な作業そのものであるからである。
一般的には、コミュニケーションを司っているのは、言語とイメージであり、建築家の特徴はそのどちらに重心を置くかによって決まると言っても過言ではない。
クリストファー・アレグザンダーは、言うまでのなく言語側の先端に重心を置いている。彼は、著作『パタン・ランゲージ』(1973、邦訳1977)において都市、建築、ディテールという3つのスケールを隅々まで言語化してみせた。
しかも著者は、単なる言語化ではなく、「パタン」という新しい建築(都市)言語を発明し、253個のそれらを有機的に関連付けさせることで、誰もが言葉を使えば文章を作ることができるのと同様に、誰もが「パタン」を使えば「建築」あるいは「都市」をつくることができる状態を目指したのである。
既に存在する建築や都市に言語を与える建築家は珍しくないが、言語のみによっていまだ見ぬ建築や都市をつくってしまおうという建築家が著者以外に見当たらないのは、著者が他のどの建築家よりも言語に生きた証であろう。
その影響は日本においても計り知れない。著者と同年代の日本の建築家は皆声を合わせて「理論は完璧だ、しかしプラクティカル(実践的)ではない」という評価を(ささやかな嫉妬を込めて)与えている。言語だけではリアルな建築はつくれないのだ、と。そうした彼の理論に対する評価が、磯崎新とウェブの誕生を経て現在に接続されたことで、再び著者が注目されているが、本稿では、筆者は著者の理論だけではなく言語そのものに注目したい。言語に生きた著者がどのような言葉を残したのかを知ることは、著者自身を知ることになるからである。
///////
試しに253個あるパタンの中からいくつか例を挙げてみる。意訳解説は筆者による。
<都市編>
■75.家族
「核家族は単独では発展的な社会形態とはいえない」
現代の核家族の崩壊を予期しており、その思想は山本理顕氏の提唱する地域社会圏に非常に近い。
<建築編>
■133.舞台のような階段
「階段も廊下も空間であり、生き生きとさせなければならない」
現在においては空間の奥に閉じ込められてしまう移動空間にも空間の豊かさを与えようとしている。
■104.敷地の修復
「建物は最良の場所ではなく最悪の場所に建てられなくてはならない」
現在の合理主義的価値観では放って置かれるような場所にこそ建築を建てるべきであると主張している。
<施行編>
■208.順に固める構造
「独自の敷地や地域の微妙な条件に順応できるように、むしろ厳密でない流動的な計画案を作成すべきだ」
計画性への批判であり、施行におけるいわゆる切断の先送りを提示している。筆者が活動している403 architectureはこのパタンに近いことを、「現場合わせ」をテーマにしたインスタレーションで実践している。

Fig1現場/プレゼント・スペース

Fig2現像/プレゼント・イメージ
余談ではあるが、私たちの活動の8割は、言語による議論である。この空間カッコいい、とかこのスケッチがカワいい、というような(私たちにとっては)曖昧な情報伝達は一切ない。なぜなら、私たちは目の前で発せられたなるべく確かな言葉に即物的に反応していくことしかできないからである。
///////
このように彼の渾身の言語化は40年経った今でも色あせていない。むしろ私たちは彼の言葉から多くのことを学べるはずだ。それは、彼が必死に在るべき建築や都市について思考し、言語化し、後世に残そうとしたからにほかならない。
言語化作業は本来(自意識の範疇を出られないと言う意味において)創造性から最も遠く、地道な作業である。しかしそれでもなお、自らにとっての確かな言語化に徹し、自らと対峙した著者は、私に、確かなことを信じる意思をくれたのだ。私も、彼のように言語に生き、建築に携わっていくことを確かな言葉としてここに残すことで本稿了とさせていただく。
*追記として、前回の書評で連氏が推薦した「ボランティア」における、動的情報から作られる有機世界の可能性(このパタン・ランゲージにおいても同様な世界観が広がっている)については筆者も深く感銘し、現在性を表す価値観として正しく確実に伝搬していることは強く付言しておきたい。

つじ・たくま
1986年生まれ。2010年横浜国立大学建築都市スクールY-GSA修了。403 architecture共同主宰。
■blog
http://d.hatena.ne.jp/hhttny/
http://deline.exblog.jp/
今回は、横浜国立大学建築都市スクールY-GSAを修了したばかりの辻琢磨による書評をお送りする。「現場合わせ」を旨とする403 architectureを共同主宰する辻が、なぜこの古典的著作を手に取るのか。書評を通じて、ともに考えたい。
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書評:『パタン・ランゲージ』(クリストファー・アレグザンダー著、鹿島出版界、1984)
評者:辻 琢磨(403 architecture)
言葉という確かなもの
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私は、建築を、空間よりも言語で捉えている。
なぜなら、私にとっての建築は多くの人とのコミュニケーションそれ自体であり、私にとってのコミュニケーションは言語的な作業そのものであるからである。
一般的には、コミュニケーションを司っているのは、言語とイメージであり、建築家の特徴はそのどちらに重心を置くかによって決まると言っても過言ではない。
クリストファー・アレグザンダーは、言うまでのなく言語側の先端に重心を置いている。彼は、著作『パタン・ランゲージ』(1973、邦訳1977)において都市、建築、ディテールという3つのスケールを隅々まで言語化してみせた。
しかも著者は、単なる言語化ではなく、「パタン」という新しい建築(都市)言語を発明し、253個のそれらを有機的に関連付けさせることで、誰もが言葉を使えば文章を作ることができるのと同様に、誰もが「パタン」を使えば「建築」あるいは「都市」をつくることができる状態を目指したのである。
既に存在する建築や都市に言語を与える建築家は珍しくないが、言語のみによっていまだ見ぬ建築や都市をつくってしまおうという建築家が著者以外に見当たらないのは、著者が他のどの建築家よりも言語に生きた証であろう。
その影響は日本においても計り知れない。著者と同年代の日本の建築家は皆声を合わせて「理論は完璧だ、しかしプラクティカル(実践的)ではない」という評価を(ささやかな嫉妬を込めて)与えている。言語だけではリアルな建築はつくれないのだ、と。そうした彼の理論に対する評価が、磯崎新とウェブの誕生を経て現在に接続されたことで、再び著者が注目されているが、本稿では、筆者は著者の理論だけではなく言語そのものに注目したい。言語に生きた著者がどのような言葉を残したのかを知ることは、著者自身を知ることになるからである。
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試しに253個あるパタンの中からいくつか例を挙げてみる。意訳解説は筆者による。
<都市編>
■75.家族
「核家族は単独では発展的な社会形態とはいえない」
現代の核家族の崩壊を予期しており、その思想は山本理顕氏の提唱する地域社会圏に非常に近い。
<建築編>
■133.舞台のような階段
「階段も廊下も空間であり、生き生きとさせなければならない」
現在においては空間の奥に閉じ込められてしまう移動空間にも空間の豊かさを与えようとしている。
■104.敷地の修復
「建物は最良の場所ではなく最悪の場所に建てられなくてはならない」
現在の合理主義的価値観では放って置かれるような場所にこそ建築を建てるべきであると主張している。
<施行編>
■208.順に固める構造
「独自の敷地や地域の微妙な条件に順応できるように、むしろ厳密でない流動的な計画案を作成すべきだ」
計画性への批判であり、施行におけるいわゆる切断の先送りを提示している。筆者が活動している403 architectureはこのパタンに近いことを、「現場合わせ」をテーマにしたインスタレーションで実践している。
Fig1現場/プレゼント・スペース
Fig2現像/プレゼント・イメージ
余談ではあるが、私たちの活動の8割は、言語による議論である。この空間カッコいい、とかこのスケッチがカワいい、というような(私たちにとっては)曖昧な情報伝達は一切ない。なぜなら、私たちは目の前で発せられたなるべく確かな言葉に即物的に反応していくことしかできないからである。
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このように彼の渾身の言語化は40年経った今でも色あせていない。むしろ私たちは彼の言葉から多くのことを学べるはずだ。それは、彼が必死に在るべき建築や都市について思考し、言語化し、後世に残そうとしたからにほかならない。
言語化作業は本来(自意識の範疇を出られないと言う意味において)創造性から最も遠く、地道な作業である。しかしそれでもなお、自らにとっての確かな言語化に徹し、自らと対峙した著者は、私に、確かなことを信じる意思をくれたのだ。私も、彼のように言語に生き、建築に携わっていくことを確かな言葉としてここに残すことで本稿了とさせていただく。
*追記として、前回の書評で連氏が推薦した「ボランティア」における、動的情報から作られる有機世界の可能性(このパタン・ランゲージにおいても同様な世界観が広がっている)については筆者も深く感銘し、現在性を表す価値観として正しく確実に伝搬していることは強く付言しておきたい。
つじ・たくま
1986年生まれ。2010年横浜国立大学建築都市スクールY-GSA修了。403 architecture共同主宰。
■blog
http://d.hatena.ne.jp/hhttny/
http://deline.exblog.jp/
BOOK REVIEW:連勇太朗による『ボランティア もうひとつの情報社会』の書評
今回は、慶應義塾大学SFCの連勇太朗による書評をお送りしたい。連は「アーキコモンズ」という設計論を通じて、「理論と実践」などという分節を丸飲みする勢いで実作に取り組んでいる。彼独特の公共観の背景を読み解く手がかりになりそうだ。http://yren.jugem.jp/
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書評:『ボランティア もうひとつの情報社会』(金子郁容著、岩波新書、1992)
評者:連勇太朗(慶應義塾大学4年生)

「なんだ、ボランティアについてか…。」と少しでも思ってしまった、そこのあなた!
食わず嫌いほど、もったいないことはない。手垢に塗れた「ボランティア」という言葉から想像してしまうステレオタイプはたくさんあるだろう。しかし、本書はネットワークという視点から新たな「ボランティア」像を提示し、私たちが抱いている固定概念の変更を迫る。その先には「もうひとつの情報社会」が示す、豊かな思考の地平が待っている。
/////ボランティア=ネットワーカー?
金子郁容『ボランティア もうひとつの情報社会』はボランティアを「ネットワーカー」として定義している。一般的には「人のため」「慈善事業」といったイメージの強いボランティアであるが、金子氏は関係性の形成という観点から「つながりをつけるプロセス」を体現している主体のことをボランティアと考える。どういうことか。以下、簡単に説明してみよう。
本書の前半はボランティアの事例紹介から始まり、近代の社会構造を、アダム・スミス、カール・マルクス、マックス・ヴェーバーを参照しながら明らかにしていく。著者は、様々な巨大システム(金融、産業、行政・官僚など)が現代社会を管理・運営しており、このようなシステムには間接的な方法でしか個人が運営に関与することができないとして、社会全体の「閉塞感」を指摘する。巨大システムに依存し支配されている状況下において、個人は実感の伴わない間接的関係・従属関係しか構築することができない。ネットワーカーとしての「ボランティア」の行動原理は、新しい価値を生産し、近現代社会の「閉塞感」を打破していくための「窓」として位置づけられるのである。
後半からは、このようなボランティアの具体的な行動原理が論じられ、新たな社会像の可能性が示唆される。著者は便宜的に情報を「動的情報」と「静的情報」に整理し、「動的情報」を発生させるプロセスとして「ネットワーク」に注目する。「静的情報」とは、対価を払うなどのコストをかけ、手に入れるものである。そのため情報を独占することが重要であり、情報をより多く保持していることが優位となる。それに対して、情報の積極的な開示によって有効的なフィードバックループを作り出し、やりとりを交わす過程で新しい価値や発見が付加されていくのが「動的情報」である。「動的情報」は世の中の既存の枠組みを動かし、新たな秩序を作り出していく上で重要な視点である。ネットワーカーとしてのボランティアは「動的情報」を常に生み出していく主体として注目されるのだ。しかし、「動的情報」は常に「バルネラビリティ」と隣り合わせである。「もうひとつの情報社会」とは「動的情報」の持つ「弱さの強さ」を柔軟に受け止めるシステムを持った社会のことである。本書において著者は、「もうひとつの情報社会」の具体的なメカニズムや全体像を提示するまでには至っていない。しかし、私たちは自分たちでそのような社会像を考え始めることが出来るだけの十分なヒントを本書から得ることができる。
著者は筆者が在籍する慶應大学SFCの教授であり、情報論、ネットワーク論を専門としている。そのような点からも、本書が単純なボランティア=慈善家という構図を越えた広い視点で書かれていることが理解できるだろう。出版当時はインターネットが一般的に普及する前の1992年である。その当時から、予兆として社会に現れる様々な現象から「ネットワーク」をキーワードにある種の「人間像/社会像」を本書が提示していることに、筆者は新鮮な驚きを感じる。
/////アーキコモンズという発想
筆者が独自に提案している「アーキコモンズ」という概念は、本書がひとつの出発点になっている。「アーキコモンズ」は「建築における関係主体間の共有構造」である。2月6日にINAX:GINZAで行われたLIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010で発表させていただいた。ネットに動画がアップされているので、詳しい内容はそちらをご覧いただきたい。
筆者の関心は、建築における「アウトカム(社会的成果)」をいかに実現していくかということにある。このことは、必然的に「アウトプット(空間の構築)」を主眼としてきた従来の建築設計の方法論や評価軸とは異なる指標を必要とする。
筆者は大学で建築設計の勉強と並行して、公共政策やソーシャルマーケティングを専門とする研究会に所属していた。そこでNPM(New Public Management)におけるアウトカム/アウトプットの考え方に出会い、「恊働」や「共有」を基盤とした行政サービスの評価システムの構築方法について学んできた。この領域における様々な概念/方法論が建築設計に応用できると考えたことが「アーキコモンズ」の構想につながった。『ボランティア』はこのような文脈で出会った本である。以下、『ボランティア』を通して「アーキコモンズ」の内包する問題意識と方法論としての可能性を説明してみたい。
/////建築設計=コミュニケーションプロセス?
「つながりをつけるプロセス」は情報を発生させるプロセスであると金子氏は定義する。このような文脈から、例えば建築におけるコンテクストや与件が決して固定的/静的なものではなく、ある特定の主体間/環境間における「関係性」において動的に生産されていく変数であると考えることできる。筆者の提案している「アーキコモンズ」は関係主体間でコミュニケーションプロセスを連鎖させていくことで、空間のアウトプット(変容/構築)に影響を与えるものである。関係形成の過程を通して立ち現れるコンテクストやデザインパターンをツールとして建築的アウトプットを実現していくのだ。コミュニケーションの効果的な連鎖をウェブやワークショップなどの「ツール」を用いて「設計」していくことで、一般的な建築設計が方法論のレベルで建築物単体しか生み出せないのに対して、「アーキコモンズ」はその背後に「ネットワーク」を形成することが可能である。背後のネットワークが建築物の「アウトカム」を実現する上で重要な役割を果たす。また、必然的に「設計者/作り手」もネットワーカーとして、ネットワークの一部/内部として「動く」ことが求められることは強調したい。

ワークショップ
/////「関係性」を扱うことの困難
筆者は常にものを作り出していくことに肯定的でありたい。しかし、あらゆる価値観を相対化してしまう社会や時代の中では、モノ造りにおける「定点」を見いだすことは困難である。ウェブインフラが発達し、コミュニケーションの様態が大きく変化/多様化している現代の時代状況において、物事の背後に潜む「関係性」をいかに扱っていくかということが、建築家だけでなく「作り手」にとって重要なのではないだろうか。筆者は、関係性を扱わない限り「もの造り」における「定点」は設定することが出来ないと考えている。
『ボランティア』は大きな方向性を示してくれてはいるが、しかし、関係性だけではモノを生み出すことはできない。そこからどのように物理的アウトプットを生み出していくか考えなければいけない。現在、「アーキコモンズ」は白馬村での民宿のプロジェクトや、木造賃貸アパートなどのプロジェクトを通して、関係性から建築物を生み出す方法を様々に実験しながら、模索している段階である。
筆者は「アーキコモンズ」によって、従来の建築設計が取りこぼしてきた領域を扱おうと考えている。それは「もうひとつの情報社会」と言い換えることが出来るかもしれない。ネットワーカーとしての設計者は構想可能だろうか。

珪藻土塗りワークショップ
/////関連図書
『ボランティア』の7年後の1999年、『コミュニティ・ソリューション』という本が金子氏によって出版された。この本は『ボランティア』で提示している様々なアイディアが、リナックスの開発などを例に社会において、どのように現象化しているかということをまとめている。また、「コモンズ」という概念も具体的に提示されており、アーキコモンズの理論的部分で参照した部分も多い。
「社会関係資本」という言葉を生み出したR・パットナムの『哲学する民主主義』という本がある。非常に有名な書物であるが、建築やアートが専門の方にとっては馴染みがないかもしれないので、関連図書として、興味があればぜひ読んでいただきたい。(了)

むらじ・ゆうたろう|
1987年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部(小林博人研究会)在籍。2010年度より同大学政策メディア研究科修士課程に進学予定。民宿や木賃アパートのプロジェクトを通して、「アーキコモンズ」を研究中。ブログ:http://yren.jugem.jp/
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書評:『ボランティア もうひとつの情報社会』(金子郁容著、岩波新書、1992)
評者:連勇太朗(慶應義塾大学4年生)
「なんだ、ボランティアについてか…。」と少しでも思ってしまった、そこのあなた!
食わず嫌いほど、もったいないことはない。手垢に塗れた「ボランティア」という言葉から想像してしまうステレオタイプはたくさんあるだろう。しかし、本書はネットワークという視点から新たな「ボランティア」像を提示し、私たちが抱いている固定概念の変更を迫る。その先には「もうひとつの情報社会」が示す、豊かな思考の地平が待っている。
/////ボランティア=ネットワーカー?
金子郁容『ボランティア もうひとつの情報社会』はボランティアを「ネットワーカー」として定義している。一般的には「人のため」「慈善事業」といったイメージの強いボランティアであるが、金子氏は関係性の形成という観点から「つながりをつけるプロセス」を体現している主体のことをボランティアと考える。どういうことか。以下、簡単に説明してみよう。
本書の前半はボランティアの事例紹介から始まり、近代の社会構造を、アダム・スミス、カール・マルクス、マックス・ヴェーバーを参照しながら明らかにしていく。著者は、様々な巨大システム(金融、産業、行政・官僚など)が現代社会を管理・運営しており、このようなシステムには間接的な方法でしか個人が運営に関与することができないとして、社会全体の「閉塞感」を指摘する。巨大システムに依存し支配されている状況下において、個人は実感の伴わない間接的関係・従属関係しか構築することができない。ネットワーカーとしての「ボランティア」の行動原理は、新しい価値を生産し、近現代社会の「閉塞感」を打破していくための「窓」として位置づけられるのである。
後半からは、このようなボランティアの具体的な行動原理が論じられ、新たな社会像の可能性が示唆される。著者は便宜的に情報を「動的情報」と「静的情報」に整理し、「動的情報」を発生させるプロセスとして「ネットワーク」に注目する。「静的情報」とは、対価を払うなどのコストをかけ、手に入れるものである。そのため情報を独占することが重要であり、情報をより多く保持していることが優位となる。それに対して、情報の積極的な開示によって有効的なフィードバックループを作り出し、やりとりを交わす過程で新しい価値や発見が付加されていくのが「動的情報」である。「動的情報」は世の中の既存の枠組みを動かし、新たな秩序を作り出していく上で重要な視点である。ネットワーカーとしてのボランティアは「動的情報」を常に生み出していく主体として注目されるのだ。しかし、「動的情報」は常に「バルネラビリティ」と隣り合わせである。「もうひとつの情報社会」とは「動的情報」の持つ「弱さの強さ」を柔軟に受け止めるシステムを持った社会のことである。本書において著者は、「もうひとつの情報社会」の具体的なメカニズムや全体像を提示するまでには至っていない。しかし、私たちは自分たちでそのような社会像を考え始めることが出来るだけの十分なヒントを本書から得ることができる。
著者は筆者が在籍する慶應大学SFCの教授であり、情報論、ネットワーク論を専門としている。そのような点からも、本書が単純なボランティア=慈善家という構図を越えた広い視点で書かれていることが理解できるだろう。出版当時はインターネットが一般的に普及する前の1992年である。その当時から、予兆として社会に現れる様々な現象から「ネットワーク」をキーワードにある種の「人間像/社会像」を本書が提示していることに、筆者は新鮮な驚きを感じる。
/////アーキコモンズという発想
筆者が独自に提案している「アーキコモンズ」という概念は、本書がひとつの出発点になっている。「アーキコモンズ」は「建築における関係主体間の共有構造」である。2月6日にINAX:GINZAで行われたLIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010で発表させていただいた。ネットに動画がアップされているので、詳しい内容はそちらをご覧いただきたい。
筆者の関心は、建築における「アウトカム(社会的成果)」をいかに実現していくかということにある。このことは、必然的に「アウトプット(空間の構築)」を主眼としてきた従来の建築設計の方法論や評価軸とは異なる指標を必要とする。
筆者は大学で建築設計の勉強と並行して、公共政策やソーシャルマーケティングを専門とする研究会に所属していた。そこでNPM(New Public Management)におけるアウトカム/アウトプットの考え方に出会い、「恊働」や「共有」を基盤とした行政サービスの評価システムの構築方法について学んできた。この領域における様々な概念/方法論が建築設計に応用できると考えたことが「アーキコモンズ」の構想につながった。『ボランティア』はこのような文脈で出会った本である。以下、『ボランティア』を通して「アーキコモンズ」の内包する問題意識と方法論としての可能性を説明してみたい。
/////建築設計=コミュニケーションプロセス?
「つながりをつけるプロセス」は情報を発生させるプロセスであると金子氏は定義する。このような文脈から、例えば建築におけるコンテクストや与件が決して固定的/静的なものではなく、ある特定の主体間/環境間における「関係性」において動的に生産されていく変数であると考えることできる。筆者の提案している「アーキコモンズ」は関係主体間でコミュニケーションプロセスを連鎖させていくことで、空間のアウトプット(変容/構築)に影響を与えるものである。関係形成の過程を通して立ち現れるコンテクストやデザインパターンをツールとして建築的アウトプットを実現していくのだ。コミュニケーションの効果的な連鎖をウェブやワークショップなどの「ツール」を用いて「設計」していくことで、一般的な建築設計が方法論のレベルで建築物単体しか生み出せないのに対して、「アーキコモンズ」はその背後に「ネットワーク」を形成することが可能である。背後のネットワークが建築物の「アウトカム」を実現する上で重要な役割を果たす。また、必然的に「設計者/作り手」もネットワーカーとして、ネットワークの一部/内部として「動く」ことが求められることは強調したい。
ワークショップ
/////「関係性」を扱うことの困難
筆者は常にものを作り出していくことに肯定的でありたい。しかし、あらゆる価値観を相対化してしまう社会や時代の中では、モノ造りにおける「定点」を見いだすことは困難である。ウェブインフラが発達し、コミュニケーションの様態が大きく変化/多様化している現代の時代状況において、物事の背後に潜む「関係性」をいかに扱っていくかということが、建築家だけでなく「作り手」にとって重要なのではないだろうか。筆者は、関係性を扱わない限り「もの造り」における「定点」は設定することが出来ないと考えている。
『ボランティア』は大きな方向性を示してくれてはいるが、しかし、関係性だけではモノを生み出すことはできない。そこからどのように物理的アウトプットを生み出していくか考えなければいけない。現在、「アーキコモンズ」は白馬村での民宿のプロジェクトや、木造賃貸アパートなどのプロジェクトを通して、関係性から建築物を生み出す方法を様々に実験しながら、模索している段階である。
筆者は「アーキコモンズ」によって、従来の建築設計が取りこぼしてきた領域を扱おうと考えている。それは「もうひとつの情報社会」と言い換えることが出来るかもしれない。ネットワーカーとしての設計者は構想可能だろうか。
珪藻土塗りワークショップ
/////関連図書
『ボランティア』の7年後の1999年、『コミュニティ・ソリューション』という本が金子氏によって出版された。この本は『ボランティア』で提示している様々なアイディアが、リナックスの開発などを例に社会において、どのように現象化しているかということをまとめている。また、「コモンズ」という概念も具体的に提示されており、アーキコモンズの理論的部分で参照した部分も多い。
「社会関係資本」という言葉を生み出したR・パットナムの『哲学する民主主義』という本がある。非常に有名な書物であるが、建築やアートが専門の方にとっては馴染みがないかもしれないので、関連図書として、興味があればぜひ読んでいただきたい。(了)
むらじ・ゆうたろう|
1987年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部(小林博人研究会)在籍。2010年度より同大学政策メディア研究科修士課程に進学予定。民宿や木賃アパートのプロジェクトを通して、「アーキコモンズ」を研究中。ブログ:http://yren.jugem.jp/
BOOK REVIEW:川勝真一による『YET』の書評
「インタビューは、読むのもするのも面白い」……と『1995年以後』のあとがきに書いてから、1年が経過した。
今あらためて、「書評は、読むのもするのも面白い」と言い換えよう。読書経験を多義的なものにし、自らの読みを深めるためには、よき書評が補助線となる。読書会的な読みの状況が生む豊かな読書経験を、このブログの読者とぜひ分かち合いたい。
この書評ブログには多くの若い書き手に登場してもらおうと考えている。そして、毎月1回の更新を予定しているので、彼/彼女らが今何に注目しているのかを定点観測的に追っていただく楽しみも、読者に提供できるのではないかと思う。
今回は、京都を拠点に、建築系のキュレーションやイベント企画を手がけるリサーチ・ラボ「RAD」の、川勝真一に執筆を依頼した。展覧会、イベントなど数々の実践的リサーチを行う川勝が、原広司が持つ歴史とどのような応答関係を結ぶのか。注視されたい。
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書評:『YET』(原広司著、TOTO出版、2009)
評者:川勝真一(RAD)

「建築に何が可能か 若い頃、“建築に何が可能か”と自問した。
半世紀過ぎても、何時も同じ設問を繰り返している。」
「建築を発見すること、なにはともあれ、建築は発見(すること)である。」
原広司『YET』は1965年の「有孔体の世界」から2008年の「Σ3」まで、過去の未完の建築プロジェクト40作品を取り上げた「作品集」である。序文には近代建築の均質空間に対する現在のアプローチが提示され、つづく図板では半世紀に及ぶ未完の構想が、「HOLE」「CUBE」「FLOATING」「EMBEDDING」「CLOUD」「ATTRACTOR」「FLOW」という7つのコンセプトごとにまとめられ、さらには実践の中で紡がれてきた言葉が、YET 版「100の教え」として提示されている。
本書は未完の構想として紹介されているが、取り上げられているのは、すべてが「未完」であるわけではない。落選したコンペ案であるとか、実施に至らなかった建築案のように完成が目指されていたものだけでなく、原の建築家としての出発点となった「有孔体の世界」や、<様相>概念へと繋がる「インダクションハウス」、「浮遊の思想」など、それ自体が建築として実現されるものではなく、後の建築の中で実現されていくべきコンセプトモデルも含まれている。
また「確立空間としての都市」「500×500×500×1」「地球外建築」などはある種の思考実験であり、「ヘラクレスの柱」、「影のロボット」などは展覧会のために作られた作品であり、通常の意味で未完とは言いがたい。これら多様な性格の構想をまとめているのが「YET」なる言葉である。
/////『YET』の<様相>
序論において、原は「YET」を「練習風景」だと位置づけ、続けて「表現の断片が練習とか準備運動の風景において一体化していれば、とりもなおさず、それがひとつの表現行為なのだ」と述べている。
これは一体どういう意味なのだろう?
そもそも、「YET」という語が、「いまだない」であると同時に「もう、すでに」という時間軸上の相反する方向に対して、状況に応じてその意味を変化させていく<様相>的な言葉なのである。建築の構想物というのは、未だ実現されていないものであると同時に、実現された建築の彼方に、もうすでに存在している何かなのだと、原は述べようとしているのだろう。
このような認識は、一般的に建築=空間として考えられ、メディウム(空間)の純粋性に価値を置くという近代的な考え方からすると、距離があるように思われる。しかし、建築の構想の中に込められた豊かな風景を、ただの「練習風景」としてではなく、建築表現の可能性や多様性を支える背景として捉えることもできるのである。
/////リサーチという方法の再構築を目指す
巻末には個別の作品解説、今回掲載された作品と実現したプロジェクトが併記された年表が納められており、原の実現した仕事を裏書きすることで、読者が作品世界を俯瞰できるようになっている。豊富な図板を眺めながら、これら未完の構想の中から産み落とされた力強い「教え」の一つ一つをじっくりと味わうことが、本書の最後に用意された、そして、何よりの醍醐味である。
理想としての未来でもなく、修辞的な操作でもなく、集落という現実の空間を対象にした地道な調査と、そこから得たアイデアを数学という理論を用いて、建築の実践に取り込んでいった。このような姿勢をこそ今真摯に受け止めていく必要があるのではないだろうか。なぜならば、現在においては、都市や日常の現実を記述すること、そしてそれを語る言語を見いだすことは、建築のみならず建築家の新しい役割を再考することに他ならないからだ。建築家に何が可能か、と。(了)
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かわかつ・しんいち|RAD主宰。1983年生まれ。京都工芸繊維大学大学院建築設計学専攻修了。2007年に建築的領域の可能性をリサーチするプロジェクトRAD(Research for Architectural Domain)設立。また2008年にプロジェクトスペースradlab.を立ち上げ。2009年より、レクチャープログラム「Query Cruise」、建築ギャラリー「rep」などを企画、運営。http://radlab.info/
今あらためて、「書評は、読むのもするのも面白い」と言い換えよう。読書経験を多義的なものにし、自らの読みを深めるためには、よき書評が補助線となる。読書会的な読みの状況が生む豊かな読書経験を、このブログの読者とぜひ分かち合いたい。
この書評ブログには多くの若い書き手に登場してもらおうと考えている。そして、毎月1回の更新を予定しているので、彼/彼女らが今何に注目しているのかを定点観測的に追っていただく楽しみも、読者に提供できるのではないかと思う。
今回は、京都を拠点に、建築系のキュレーションやイベント企画を手がけるリサーチ・ラボ「RAD」の、川勝真一に執筆を依頼した。展覧会、イベントなど数々の実践的リサーチを行う川勝が、原広司が持つ歴史とどのような応答関係を結ぶのか。注視されたい。
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書評:『YET』(原広司著、TOTO出版、2009)
評者:川勝真一(RAD)
「建築に何が可能か 若い頃、“建築に何が可能か”と自問した。
半世紀過ぎても、何時も同じ設問を繰り返している。」
「建築を発見すること、なにはともあれ、建築は発見(すること)である。」
原広司『YET』は1965年の「有孔体の世界」から2008年の「Σ3」まで、過去の未完の建築プロジェクト40作品を取り上げた「作品集」である。序文には近代建築の均質空間に対する現在のアプローチが提示され、つづく図板では半世紀に及ぶ未完の構想が、「HOLE」「CUBE」「FLOATING」「EMBEDDING」「CLOUD」「ATTRACTOR」「FLOW」という7つのコンセプトごとにまとめられ、さらには実践の中で紡がれてきた言葉が、YET 版「100の教え」として提示されている。
本書は未完の構想として紹介されているが、取り上げられているのは、すべてが「未完」であるわけではない。落選したコンペ案であるとか、実施に至らなかった建築案のように完成が目指されていたものだけでなく、原の建築家としての出発点となった「有孔体の世界」や、<様相>概念へと繋がる「インダクションハウス」、「浮遊の思想」など、それ自体が建築として実現されるものではなく、後の建築の中で実現されていくべきコンセプトモデルも含まれている。
また「確立空間としての都市」「500×500×500×1」「地球外建築」などはある種の思考実験であり、「ヘラクレスの柱」、「影のロボット」などは展覧会のために作られた作品であり、通常の意味で未完とは言いがたい。これら多様な性格の構想をまとめているのが「YET」なる言葉である。
/////『YET』の<様相>
序論において、原は「YET」を「練習風景」だと位置づけ、続けて「表現の断片が練習とか準備運動の風景において一体化していれば、とりもなおさず、それがひとつの表現行為なのだ」と述べている。
これは一体どういう意味なのだろう?
そもそも、「YET」という語が、「いまだない」であると同時に「もう、すでに」という時間軸上の相反する方向に対して、状況に応じてその意味を変化させていく<様相>的な言葉なのである。建築の構想物というのは、未だ実現されていないものであると同時に、実現された建築の彼方に、もうすでに存在している何かなのだと、原は述べようとしているのだろう。
このような認識は、一般的に建築=空間として考えられ、メディウム(空間)の純粋性に価値を置くという近代的な考え方からすると、距離があるように思われる。しかし、建築の構想の中に込められた豊かな風景を、ただの「練習風景」としてではなく、建築表現の可能性や多様性を支える背景として捉えることもできるのである。
/////リサーチという方法の再構築を目指す
巻末には個別の作品解説、今回掲載された作品と実現したプロジェクトが併記された年表が納められており、原の実現した仕事を裏書きすることで、読者が作品世界を俯瞰できるようになっている。豊富な図板を眺めながら、これら未完の構想の中から産み落とされた力強い「教え」の一つ一つをじっくりと味わうことが、本書の最後に用意された、そして、何よりの醍醐味である。
理想としての未来でもなく、修辞的な操作でもなく、集落という現実の空間を対象にした地道な調査と、そこから得たアイデアを数学という理論を用いて、建築の実践に取り込んでいった。このような姿勢をこそ今真摯に受け止めていく必要があるのではないだろうか。なぜならば、現在においては、都市や日常の現実を記述すること、そしてそれを語る言語を見いだすことは、建築のみならず建築家の新しい役割を再考することに他ならないからだ。建築家に何が可能か、と。(了)
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かわかつ・しんいち|RAD主宰。1983年生まれ。京都工芸繊維大学大学院建築設計学専攻修了。2007年に建築的領域の可能性をリサーチするプロジェクトRAD(Research for Architectural Domain)設立。また2008年にプロジェクトスペースradlab.を立ち上げ。2009年より、レクチャープログラム「Query Cruise」、建築ギャラリー「rep」などを企画、運営。http://radlab.info/
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