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BOOK REVIEW:市川紘司による『アルゴリズミック・アーキテクチュア』の書評
今回は東北大学大学院、五十嵐太郎研究室の市川紘司氏による『アルゴリズミック・アーキテクチュア』の書評をお届けしたい。アルゴリズムがある種のリズム=躍動する思考であることを、私は本書評から改めて感じる。なお、本書の書評は、市川氏の個人ブログやTwitter上での言及を拝読した上で、私が、市川氏に依頼したものである。前回の更新以降、市川氏には長らくお付き合いいただいてしまった。お礼申し上げたい。
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書評:
『アルゴリズミック・アーキテクチュア』
コスタス・テルジディス:著
田中浩也:監訳 荒岡紀子+重村珠穂+松川昌平:訳
彰国社、2010
評者:
市川紘司(東北大学大学院)

////////////////////////
■アルゴリズムへの素朴な導入書として
本書はあくまでも建築におけるアルゴリズム系議論への導入基礎テキストとして読まれるべき書物だろう。原著が出されたのはほんの四年前(2006)だが、こうした技術オリエンテッドな議論は日進月歩で更新されていくからだ。というよりも丁寧な記述や簡易なスクリプトのスタディを見るかぎり、そもそもそのように書かれているとも言える(丁寧すぎてまわりくどい箇所もあるが)。えてしてアルゴ「イズム」(Algor-ism)として扱われる日本の文脈を離れて、裸形素朴のアルゴリズムに触れる気持ちで読むくらいがよいと思う。
中心的に提示されるのはコンピュータライゼイションとコンピュテーション、ツールユーザー(デザイナー)とツールメーカー(メタデザイナー)という二種の対立軸である。このとき前者から後者へというパラダイムシフトとして読めそうだが、両者のあいだに位置づけられる「アルゴリズミック・アーキテクチュア」こそが著者の主張としてある。
■曖昧性、複雑性をめぐって
書評者は、本書が新概念としての「アルゴリズミック・アーキテクチュア」をこれまでの建築言語の流れのなかに位置づけようという意図のもと書かれていると解釈している。この前提に立ち、キータームに「他者性」「曖昧性」「複雑性」を挙げ、考えてみる。
「曖昧性」と「複雑性」は本書中のチャプター5と6にそれぞれ対応する。明晰なものからこそ曖昧性は獲得される。単純さからこそ複雑性は獲得される。自然言語だと満足に指し示すことができなかったこれら性質が、アルゴリズムによってはじめて指示&制作可能だとされる。
この二概念は近年の建築が一貫して求めていると言うべき性質でもある。「全体性」よりも「部分」を優先する構成的傾向とも言い換えられるが、これを『建築の複雑性と対立性』(R.ヴェンチューリ、1966)や原広司が1960年代に提案した理論からの流れとして理解することも可能だろう。とくに原は近代建築における「構成」の問題を批判的に考察する最初期の建築家であり、「部分から全体へ」という標語に象徴される彼の問題意識は均質空間の生むファシズム的なものへの空間的アンチテーゼでもあった。対照的にヴェンチューリのそれは、彼自身の述べるとおり「建築形態」に限定されている。
このとき日本=空間、海外=形態という通念的な問題の立て方を反復しているだけではと思われるかもしれない。しかし両者は曖昧性・複雑性を求める点では同根ではあるものの、たしかに微妙に異なるアウトプットがなされているとは言えないだろうか。
日本では曖昧性・複雑性といった概念は、建築を建築外部(コンテクスト論やプログラム論など)と接続するために召喚される場合が多い。たとえば「ゆるやかにつながる空間」云々というのは、単体の建築物内部における空間の関係性へのコメントであると同時に、周辺環境やアクティビティの関係性についてのコメントとしても意味を拡げていると解釈できる。
一方で西欧では、形態のみでそれら性質が完結している感はつよい。いくらアンチモニュメントをその建築(と建築家)が謳っていたとしても建築は日本におけるよりもずいぶん自律している印象を受ける。本書の批判するところのいわゆるブロッブ・アーキテクチュア系がその最たる例だが、実際のところ本書の議論もあくまで「建築形態」をのみ巡ってなされてしまっている。建築を外部から根拠づけるお話は登場しない。
■他者性をめぐって
著者によればコンピュータライゼーションにおいてコンピュータは建築家の拡張された手足でしかないがアルゴリズミック・アーキテクチュアにおいてはそれは「他者」だと言う。
設計プロセスにおいて他者性の確保が重要であるのは言うまでもない。とくに本書のように建築外部の話題に触れない以上、ここで議論される建築には広義の意味での「共感可能性」が必要になってくる。建築は社会的生産物である。それゆえ何らかの方法で社会と接続しなければならない。
単純に考れば、そこには二通りの方法が想定される。ひとつは具体的即物的に社会と闘う方法。もうひとつは感覚や思考の共感によって抽象的次元から社会と接続する方法で、このとき社会は「他者」と呼ばれる概念に抽象化されて扱われるだろう。
さてアントワン・ピコンの序文に「テルジディスが機械の属性であると位置づける『他者性』は、私たち自身の内にも存在する」とある。言うまでもなくこれは無意識を指している。
無意識に着目し、創作プロセスの自動生成をきわめて独特の方法で思考している建築家として青木淳の言葉を引こう。「『私』とは、核がくっきりとしているものではなく、僕を取り巻く他人の欲望が無意識に逆照射された、どこからどこまでが自分で、どこから先が他人かが不分明な、自他のやりとりの偶々の歴史がかたちづくっている動的平衡状態なのです」。それゆえ「『私』の視点だけでつくっても、そこには『使い手』の視点が、じつは色濃く含まれざるをえない」(『建築雑誌2010年3月号』22頁)。
社会的プログラムとは無関係な決定ルールをオーバードライブさせる青木の設計論は、むしろそうすることで「使い手」という名の他者性を獲得するためにこそ採用されている。こうして青木の建築は異質さ/同質さ、親近感/違和感といった(自然言語ではトートロジーに陥る)アンビヴァレントな性質を達成しうる可能性を得る。
青木の言う「使い手の視点」といった性格=他者性をコンピュータは保証し得るだろうか。感性工学の発展はその一策として挙げられよう。あるいは建築家の松川昌平が提唱する「あらゆる建築的情報が生成されるメタバース」も、それがビルディングエレメント論の範疇を跳び越え現象や感情まで網羅されるならば、他者性を仮構することは可能だろう。
■超自律的建築的思考としてのアルゴリズム——建築家不要論の行方
まずもって建築の自律性が先立ち、その枠内において曖昧性や複雑性といった反モダン的な性質が求められ、一方で社会的な回路を保つために他者性への言及がある。本書が描くのは、レム・コールハースやSANAAに代表されるような1990年代的プログラム論の系譜に連ならない建築のあり方である。
拙論『2010年代的住居設計の在り方をめぐる小話』でも触れたとおり、書評者はこうした形式的な思考に興味を引かれている。それゆえ、むろん本書の指し示す建築の方向性には関心がある。
原理的に考えればアルゴリズムは数式(機械言語)だから形態生成のお話も建築外部のお話も一括りに、等価に記述することができる。つまりそこでは極端に自律的に建築を思考することと、建築の外部を思考することが共存可能なのである。この点でアルゴリズミック・アーキテクチュア(の可能性)とブロッブ・アーキテクチュアとはずいぶん異なると言えるだろう。
これは冒頭に記した対立軸において前者に振りきれた場合のいわゆる「建築家不要論」的立場からの考え方とほぼ等しい。しかし以上のように考えてみると、それは「すべてが建築的思考の内に回収される」とパラレルな事態ともなることが分かる。
すべてが建築であることは、すべてが建築でないこととも同じである。つまり「ビルディングへの局限化」と「アーキテクチュアへの先鋭化」という区分は意味がない。この極端に自律的に建築を思考する問題構制は、このような価値選択をそもそも不可能にする点にこそラディカルな転換がありはしないか。

いちかわ・こうじ
1985年東京都生まれ。東北大学大学院都市・建築理論分野在籍。第五回ダイワハウスコンペティション優秀賞受賞。共著に『現代建築家99』(新書館、2010)『都市・建築ガイドブック21世紀』(彰国社、2010)。
twitter : ichikawakoji
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書評:
『アルゴリズミック・アーキテクチュア』
コスタス・テルジディス:著
田中浩也:監訳 荒岡紀子+重村珠穂+松川昌平:訳
彰国社、2010
評者:
市川紘司(東北大学大学院)

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■アルゴリズムへの素朴な導入書として
本書はあくまでも建築におけるアルゴリズム系議論への導入基礎テキストとして読まれるべき書物だろう。原著が出されたのはほんの四年前(2006)だが、こうした技術オリエンテッドな議論は日進月歩で更新されていくからだ。というよりも丁寧な記述や簡易なスクリプトのスタディを見るかぎり、そもそもそのように書かれているとも言える(丁寧すぎてまわりくどい箇所もあるが)。えてしてアルゴ「イズム」(Algor-ism)として扱われる日本の文脈を離れて、裸形素朴のアルゴリズムに触れる気持ちで読むくらいがよいと思う。
中心的に提示されるのはコンピュータライゼイションとコンピュテーション、ツールユーザー(デザイナー)とツールメーカー(メタデザイナー)という二種の対立軸である。このとき前者から後者へというパラダイムシフトとして読めそうだが、両者のあいだに位置づけられる「アルゴリズミック・アーキテクチュア」こそが著者の主張としてある。
■曖昧性、複雑性をめぐって
書評者は、本書が新概念としての「アルゴリズミック・アーキテクチュア」をこれまでの建築言語の流れのなかに位置づけようという意図のもと書かれていると解釈している。この前提に立ち、キータームに「他者性」「曖昧性」「複雑性」を挙げ、考えてみる。
「曖昧性」と「複雑性」は本書中のチャプター5と6にそれぞれ対応する。明晰なものからこそ曖昧性は獲得される。単純さからこそ複雑性は獲得される。自然言語だと満足に指し示すことができなかったこれら性質が、アルゴリズムによってはじめて指示&制作可能だとされる。
この二概念は近年の建築が一貫して求めていると言うべき性質でもある。「全体性」よりも「部分」を優先する構成的傾向とも言い換えられるが、これを『建築の複雑性と対立性』(R.ヴェンチューリ、1966)や原広司が1960年代に提案した理論からの流れとして理解することも可能だろう。とくに原は近代建築における「構成」の問題を批判的に考察する最初期の建築家であり、「部分から全体へ」という標語に象徴される彼の問題意識は均質空間の生むファシズム的なものへの空間的アンチテーゼでもあった。対照的にヴェンチューリのそれは、彼自身の述べるとおり「建築形態」に限定されている。
このとき日本=空間、海外=形態という通念的な問題の立て方を反復しているだけではと思われるかもしれない。しかし両者は曖昧性・複雑性を求める点では同根ではあるものの、たしかに微妙に異なるアウトプットがなされているとは言えないだろうか。
日本では曖昧性・複雑性といった概念は、建築を建築外部(コンテクスト論やプログラム論など)と接続するために召喚される場合が多い。たとえば「ゆるやかにつながる空間」云々というのは、単体の建築物内部における空間の関係性へのコメントであると同時に、周辺環境やアクティビティの関係性についてのコメントとしても意味を拡げていると解釈できる。
一方で西欧では、形態のみでそれら性質が完結している感はつよい。いくらアンチモニュメントをその建築(と建築家)が謳っていたとしても建築は日本におけるよりもずいぶん自律している印象を受ける。本書の批判するところのいわゆるブロッブ・アーキテクチュア系がその最たる例だが、実際のところ本書の議論もあくまで「建築形態」をのみ巡ってなされてしまっている。建築を外部から根拠づけるお話は登場しない。
■他者性をめぐって
著者によればコンピュータライゼーションにおいてコンピュータは建築家の拡張された手足でしかないがアルゴリズミック・アーキテクチュアにおいてはそれは「他者」だと言う。
設計プロセスにおいて他者性の確保が重要であるのは言うまでもない。とくに本書のように建築外部の話題に触れない以上、ここで議論される建築には広義の意味での「共感可能性」が必要になってくる。建築は社会的生産物である。それゆえ何らかの方法で社会と接続しなければならない。
単純に考れば、そこには二通りの方法が想定される。ひとつは具体的即物的に社会と闘う方法。もうひとつは感覚や思考の共感によって抽象的次元から社会と接続する方法で、このとき社会は「他者」と呼ばれる概念に抽象化されて扱われるだろう。
さてアントワン・ピコンの序文に「テルジディスが機械の属性であると位置づける『他者性』は、私たち自身の内にも存在する」とある。言うまでもなくこれは無意識を指している。
無意識に着目し、創作プロセスの自動生成をきわめて独特の方法で思考している建築家として青木淳の言葉を引こう。「『私』とは、核がくっきりとしているものではなく、僕を取り巻く他人の欲望が無意識に逆照射された、どこからどこまでが自分で、どこから先が他人かが不分明な、自他のやりとりの偶々の歴史がかたちづくっている動的平衡状態なのです」。それゆえ「『私』の視点だけでつくっても、そこには『使い手』の視点が、じつは色濃く含まれざるをえない」(『建築雑誌2010年3月号』22頁)。
社会的プログラムとは無関係な決定ルールをオーバードライブさせる青木の設計論は、むしろそうすることで「使い手」という名の他者性を獲得するためにこそ採用されている。こうして青木の建築は異質さ/同質さ、親近感/違和感といった(自然言語ではトートロジーに陥る)アンビヴァレントな性質を達成しうる可能性を得る。
青木の言う「使い手の視点」といった性格=他者性をコンピュータは保証し得るだろうか。感性工学の発展はその一策として挙げられよう。あるいは建築家の松川昌平が提唱する「あらゆる建築的情報が生成されるメタバース」も、それがビルディングエレメント論の範疇を跳び越え現象や感情まで網羅されるならば、他者性を仮構することは可能だろう。
■超自律的建築的思考としてのアルゴリズム——建築家不要論の行方
まずもって建築の自律性が先立ち、その枠内において曖昧性や複雑性といった反モダン的な性質が求められ、一方で社会的な回路を保つために他者性への言及がある。本書が描くのは、レム・コールハースやSANAAに代表されるような1990年代的プログラム論の系譜に連ならない建築のあり方である。
拙論『2010年代的住居設計の在り方をめぐる小話』でも触れたとおり、書評者はこうした形式的な思考に興味を引かれている。それゆえ、むろん本書の指し示す建築の方向性には関心がある。
原理的に考えればアルゴリズムは数式(機械言語)だから形態生成のお話も建築外部のお話も一括りに、等価に記述することができる。つまりそこでは極端に自律的に建築を思考することと、建築の外部を思考することが共存可能なのである。この点でアルゴリズミック・アーキテクチュア(の可能性)とブロッブ・アーキテクチュアとはずいぶん異なると言えるだろう。
これは冒頭に記した対立軸において前者に振りきれた場合のいわゆる「建築家不要論」的立場からの考え方とほぼ等しい。しかし以上のように考えてみると、それは「すべてが建築的思考の内に回収される」とパラレルな事態ともなることが分かる。
すべてが建築であることは、すべてが建築でないこととも同じである。つまり「ビルディングへの局限化」と「アーキテクチュアへの先鋭化」という区分は意味がない。この極端に自律的に建築を思考する問題構制は、このような価値選択をそもそも不可能にする点にこそラディカルな転換がありはしないか。

いちかわ・こうじ
1985年東京都生まれ。東北大学大学院都市・建築理論分野在籍。第五回ダイワハウスコンペティション優秀賞受賞。共著に『現代建築家99』(新書館、2010)『都市・建築ガイドブック21世紀』(彰国社、2010)。
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