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「今社会の変化の中で我々は何を学び、社会とどう関わるのか」をテーマに、実際に社会的な活動をされている方へのインタビュー集

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07月 08日 20:12   /  フェラガモ 靴
フェラガモ 靴

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木村博昭氏インタビュー 「『応急から復興へ』関西建築家ボランティアを通して。」

東日本大地震によって被害にあわれた皆様。
行方不明のお方々にはご無事をお祈りいたします。
お亡くなりになられた方々には心からのお見舞いと、お悔みを申し上げます。

又、現地におき被災者救助や災害対策に尽力されておられる関係者皆様に敬意と感謝の意を表します。

改めまして、被災されました皆様方に対し、心よりお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。


Introduction
現在、私たちが最も興味があることは、建築や空間の持つ社会性についてです。造形が社会を作るのでなく、社会の中に造形を生む要素がたくさんあると考えています。私たちは大学で、「まちづくり」や「都市政策」を学んでいます。そこで見えてきたのは建築やデザインの前段階に多くの要素が存在しているということでした。設計課題だけでは決して見えない様々な問題を目の当たりにして、「今社会の変化の中で我々は何を学び、社会とどう関わるのか」をテーマに、実際に社会的な活動をされている方へのインタビューを通して学ぼうと考えています。


(写真 右 木村博昭氏/撮影 浅野)


 第二回は、京都工芸繊維大学教授であり建築家Ks Architects木村博昭さんです。阪神大震災発生直後に20名程度の関西建築家ボランティアを発足し、建築家として出来ることを実践されておりました。東日本大震災を考えるに当たり、阪神大震災から建築家として活動をもとに今考えること、活動することについてお伺いしてきました。
 今現在各地で東日本大震災を受けて建築家や建築を学ぶものとして何が出来るのか、何を語るべきかといった議論が盛んに行なわれております。一方で、多くの者が何もできない歯がゆさ、建築の無力感に悩まされているのではないかと思います。こうした災害に見舞われたとき、我々は建築を学んできた身として何が出来るのでしょうか。
 こうした思いの中、平成の大地震と言えば阪神大震災が思い浮かびます。当時の被災地における建築家や建築学生たちは何を考え、どのような活動をしていたのでしょうか。阪神大震災を振り返ることで東日本大震災について考えたいと思います。(文章 浅野)


──当時を振り返って
浅野 関西建築家ボランティアの発足と活動内容についてお聞かせください。

木村 関西建築家ボランティアは、医者が緊急で現場に二十四時間体制で入っているのを見て、建築家が専門職としてなにが出来るかを考えたことがきっかけで発足しました。はじめは二十〜三十人。支援ではなく専門職としてなにをするべきかを考え、そこで当時はなかった被災度チェックを行いました。震災後一週間くらい経っても、家に帰ることができるか分からない状況で、いつ次の地震で家が壊れるかもしれないと不安に思っている人がたくさんいました。そこで現場に行って見てあげることが専門職としての使命ではないかと考え、復興計画を考えることなど大げさなことではなくて身近なところでできることを行ったのです。それに被災者を前にすると復興計画を考えることはできなかったですね。関西建築家ボランティアに参加した多くのアトリエ系建築家は自分の責任の範囲内でできることをやりました。被災度チェックは例えば建築士会がやると、もし安全だと言って壊れたら大変なことになる。
 新聞に載りだしてからチェックして欲しいと言う人が増え、それとともに仲間を増やしていきました。各自、仕事もあるのでシフトを組みながら千軒くらいは回ったと思います。医者のように緊急の動きができない、できにくいので建築家は本当にもどかしさがあります。関西建築家ボランティアでも、当時改修の相談に無料で乗りますよと言っても、そういった話は結局いっさいなかった。街並みをよく良くしようというのは次で、まず生活環境を整えないと話ができなかった。一方で無くなってしまった酒倉など街の文化についても言い続けていました。住民意識を高めるためにやっていました。しかしそれについても反応はあまりなかった。半年から一年経った時に、街の模型を作って住民と話し合ったりしました。復興しよう!と音頭をとったけれど、それがどれだけ効果があったかは見えない。それが限界だったと思います。
 それよりも一番感謝してもらったことは、被災度チェックによって、被災者と話したことです。それが心のケアになっていたと思います。少しでも専門家が、安全についてアドバイスすることが安心につながったと思います。もう一つ建築系の人が来た時に期待されたのは、実際に立て直すことです。でも立て直すことはできなかった。本当は施工体制まで作って応急的に直し、住めるようにすることが理想です。しかし実際やるとなると職人さんを雇うなど金銭面の課題が多くでそこまではでき
なかったです。

浅野 関西建築家ボランティアでは現地の被災度チェックはどのくらいの期間やっていたのですか。

木村 半年くらいはやっていました。三月、四月が一番多く五月くらいには減ってきました。それ以上経つと、まともに残っている家の人のチェックが増えました。だんだん資産価値があるのかないのかと言った話になっていきます。被災度チェックに行政が入ってくると保険の話なども絡んでくるので、そこまでで自分たちの役割は終わっていたのだと思います。草の根的な活動で始まったので、個人的には判定するというよりは、生活の中で、この場所で寝たほうがいいとか、具体的なわかりやすい話をしていました。

森村 チェックよりケアをするということのほうが大きかったんですね。半年以降の関西建築家ボランティアとしての動きはどう展開されたのですか。

木村 自分たちもだんだん仕事が動き出してきたので、仕事の合間で街並みや文化の話を住民や行政の方を交えて話をしていました。緊急の対応から応急の対応、半年後から中長期的な提案になっていきました。建築的な提案も二年後くらいからしかできませんでした

森村 今現在、Architecture for Humanityも同じように二週間、四ヶ月、二年それぞれでやるべきことを挙げています。なぜ関西建築家ボランティアは二年で一応区切りをつけたのですか。

木村 応急でやれる範囲はそこまでだったと思います。ボランティアの建築家の役割は応急でいいのだと思います。復興の話は国や県レベルの話になってきて、それは関わることができる建築家がやればいいと思います。

──東日本大震災について
浅野 現地に入っている方が、お金や物資は大きな動きができてきている一方でそれをどう使うのが一番良いのかを示せれる人がいない。建築家のような人がコンサル的な立場で活躍することが求められているとおっしゃっていました。

木村 最近、関西建築家ボランティアのメンバーと集まったが被災地まで距離が遠く、現地に行ける状況ではなかったけれども今やっと行ける状況になっていると思うので例えば十人くらいで行って、二、三日動きながら阪神大震災の時にやってきたことを現地の建築家などに伝えられるなと思っています。また、関西建築家ボランティアでは二年間で集まった資金の残りがあるのでそれを原資に関ボラ基金を作ろうと思っています。そのお金を現地で動いている建築家を支援するお金にしようと思っています。そうすることで、実際に活動している人にも後ろ盾ができて、いい関係が作れると思います。

浅野 阪神大震災の時は、大学の授業などはいつくらいから始まったのでしょうか。

木村 震災があったのが一月だったので、五月くらいにはちゃんと復活していたと思います。もし今回の震災で授業もない学生がいたら、ゼミで受け入れてもいいと検討しています。少しの間でも京都にいて、意見交換もすることもできるでしょう。たぶん君たちにできることは、そういう学生と受け入れてくられる研究室やゼミをマッチングしていくことではないかな。

浅野 窓口的なものですね。

木村 私たちから言うより、同年輩同士で連絡を取るほうがいい。関西はモノも不足していないしできると思います。一方、被災地でボランティアをしている学生もいて街を離れられないと思うかもしれないけれど、動ける学生の受け入れ先を作ることはアンオフィシャルだとしても必要だと思います。東北の学生たちがどうしてるかが分からない状況ですが、オープンデスクなど仕事としてやる方法もありますが、大学・ゼミで教育支援として受け入れることが良いと思います。

浅野 三回生以上は研究室で受け入れるができますが、一、二回生をどうするかも問題ですね。

木村 少し話を広げると、授業を受けることができて、単位も出るようにできれば良いと思います。半年くらいは学校も動かないと思うので、少し気分を変えてこちらで学ぶことも一つあると思います。学校は社会的な場所なので受け入れて当たり前だけれど、率先してやることは言わないと思います。単位交換など下から提案すれば動くのではないでしょうか。今の状況では本当に来たい学生がいるかいないか分からないので、まず来たいという学生を見つけることからスタートでしょうね。大学単位で正式にやっているところはないので提案しているところです。
 また来たい学生の住まいも必要ですね。居場所があることは大切で、今京都に来ることになっても、地震がなかったらないことだし、継続的に関わるならば彼らが戻った時も情報を交換し続けれるような仕組みが必要ですね。今の東北の学生が十年後の東北を作ることになるかもしれない

森村 おはなしを伺っていると「仮住まいの輪」と連携しながらできたらいいなと思いました。そういった環境を整えて情報を発信していきたいです。学生同士で話ができることも良いと思います。

 今、仮説住宅の計画などを作っている学生たちがいます。それについてはどう思いますか。

木村 作ることは可能ですが作ることと現地の要望がつながるかが重要です。もう少し組織だって官民も入れて出来るならば違うかもしれない。しかし現状は一日でも早く大量に建てないといけないので、羊羹型が一番でしょう。一つ向きを変更するだけ二〜三日工期がずれてしまうかもしれないですし、敷地がないことが今回の震災では問題です。コミュニティの話は応急的な処置の後ではないかと思います。

──教育者として
浅野 本日お伺いしたお話は授業などではされますか。

木村 建築家の役割として、デザインする以外にもあること教えたい思います。安藤さんには安藤さんの、伊東さんには伊東さんの、坂さんには坂さんの役割があると思います。坂さんはデザインと社会的な問題をどう結びつけるかをやってきた人で、今重要なことだと思います。スタンスは様々あることは分かった上で行動を考えたほうが良いと思います。業界だけの話にならず社会につながることをやっていこうと思います。

浅野 全員が坂さんを目指さないといけないというわけではないということは分かっておきたいですね。

木村 そうですね。でも医者の数が多いと良いように、同じようなことをする人がある時期多くいることは環境をよくする上で良いと思います。マイノリティのために建築家が何が出来るかは普段でも考えることができることです。

森村 現地で活動している人を支援することと、こちら側では窓口を作ることの両方が必要だと思いました。応急から中長期の話に移行する時の判断が難しそうですね。

木村 ずっと応急的に医者が必要でないように、身を引くタイミングがあると思います。関西建築家ボランティアをやっていた時はそのタイミングがまだ分かっていなかった。活動をしていたことで神戸市からコンサル的な依頼もありましたが、ボランティアと仕事の線引きは難しいです。

森村 応急から復興を意識する時や、仮説住宅から復興住宅に移る時など、フェーズが変化するときに問題が起こるのだろうなと考えています。神戸市でも優先的に仮設住宅の高齢者を復興住宅に移したことで、今になって孤独死の問題なども出てきています。そういった事例もとにを建てることと同時に考えていく必要がある問題もあると思います。

木村 中長期の問題は三年であろうと十年であろうとそんなに変わらないと思います。なので応急だけが大きな問題で、今回の震災で言うと夏までの半年間が職能としては関わるべき時期だと思います。住民の方も半年経てば身の振り方も考えていくと思います。

浅野 今作ることの提案はあるので、引き際をどうやって作っていくかも考えていきたいなと思います。学生ももどかしい気持ちがあると思うので、なにか話が出来る場を作れればいいなと思います。本日はありがとう
ございました。


-Media
関西建築家ボランティアの2年間の活動掲載雑誌
新建築住宅特集 9702, 新建築社

阪神大震災の現場から;関西建築家ボランティアの活動掲載雑誌
新建築住宅特集 9504, 新建築社

前田建設工業株式会社 綱川隆司氏インタビュー「BUILD LIVE TOKYO 2010を終えて」


■BLT2010について
森村|最終プレゼンテーションではどのような提案をされましたか。

綱川|パワーポイントでなくてVBEでヴァーチャルツアーをやりました。パワーポイントを使わないで全部VBEの中にプレゼンデータ入れ込んで実際にウォークスルーで見てもらう手法です。最初はチームの紹介、次に「ライブセッション」というテーマを紹介して、で実際建物の中を歩いて見ながらプレゼンが進みます。

今回の取り組みとしてニュージーランドのバーリトンアーキとランドスケープを設計したRIKと私たちと協力会社がいる前田建設工業の三か所で設計をしています。それをセコムさんとBIMサーバーを介してデータを共有していました。これは私たちが提唱している「BIM3.0」という考え方です。サーバーを使って、設計者あるいは施工者以外の第三者、発注者的な人たちがデータをシェア・閲覧できる仕組みです。今回セコムさんはいわゆるコンサルみたいな立場で入っていました。
私たちがデザイン、スケッチしたものに対してセコム側で分析解析し、問題無ければそのままで、悪ければもう一度プランニングを作り直す作業をしました。これを10人がいっせいにやっているので内容を48時間の中で多少デザインのディレクションをしなければいけませんでした。
実際にどんな解析をしていたかというと人の動き、動線とセキュリティです。部屋ごとの関連性からより近い方にあった方がいいだろうとか、セキュリティで離しておいた方がいいだろうとか、そのような解析をやりました。さらに一つの建物の中で部屋ごとの関連性をダイアグラム化し、それを動線で解析した評価を見てみて実際に変えたところもあるし、見切りでやったところもあります。その辺はかなり人間的な感じですね。

森村|チームが複数の主体にまたがっていますが、どのようにデザインをまとめていったのでしょうか。
綱川|割り切って勝手にみんなやっています。それでも全体を強く拘束するためにアーチ状のトンネルを設けて個性的なバラバラなデザインでも一つの施設になるようにしました。前提条件として、セコムさんの解析をすると配置や中のプラン含めて変更が入ることを事前に説明していました。先ほどディレクションと言いましたがあんまり口出しはしていないです、最初のルールだけ決めていました。

森村|意匠設計の人を外部から入れたのは初めてですか。

綱川|ランドスケープのコラボレーションはありましたが、設計に外部から人を入れたのは初めてでした。今回はアーキフューチャーのプレゼン冒頭でも言ったのですが、楽しめるBLTを目指していました。暴走も許容してそこに何が起きるのかを楽しみにしていたので他のチームのようにきっちりディレクションをしていこうとは考えていませんでしたね。そういう意味では成功していますね。

森村|全然知らない人とやるときにどう統合していくかが問題になると思いますが、これから実際にやられたような海外の人たちと連携することがどんどん出てくるのでしょうか。

綱川|そうですね。業界の中では以前より海外の力を活用する試みは行われていて、極端な例をいえば地球の裏側で我々が寝ている間に仕事してもらえるパートナーと24時間フルに物件を回すような構想もありました。でも現実にはうまくいかないようです。今回みたいにニュージーランドはあまり時差がないので逆にやりやすかったかもしれません。我々が寝ている間に向こうが疑問に思ったことは結局進みませんよね。もともと建設業界はドメスティックで国外と関連がないような業界と思われていますが、BIMをやっていると国外の方々と接する機会が増えたのは事実です。うちの会社もこれから海外に注力しようという話も出ていますね。いよいよゼネコンも国際化の気運はありますよね。

■発注者が使えるBIM
綱川|私たちが今目指しているのは「発注者が使えるBIM」です。事業企画の段階で使うBIM、建物が立った後のBIM。実際のリアルな建物と対になるBIMのヴァーチャルビルディングみたいなものがあって、それが維持管理やファシリティマネジメントで使えるしくみです。現在一般的な紙の竣工図の代わりに使うものです。竣工図は十年、二十年経つとボロボロになっていくので読みにくいものですが電子媒体ならば必要な情報にすぐにアクセスできる利点があります。

森村|データが建物に付与されるようになっていくと逆にデータから判断されて、「快適度が高いからこの建物はいい」というような本末転倒になってしまうところが出てくるとことがあると思います。それについてはどうお考えですか。

綱川|定量化する、数値化する点においては危惧していることはあります。例えば建築家が大事にしてきた領域をデジタル化し数値に置き換えることはいままで大事にしてきたものが壊れてしまう、別の指標が出てきて侵されてしまう、ということがあると思います。
 しかし一方では感性や芸術的な側面も実は数値化できてしまうと思っています。例えば「このデザインを見てどう思いますか?」と単純なアンケートをとるのと同時に脳波を図って調べるのも一つかもしれない。意外とそういうことによって一般の人がどういう建築が好きか嫌いかみたいなものもわかってしまうと思っています。今までは諸条件が異なる建物を一品ずつ評価することしかできないですが、これからは3Dメガネなどで簡単にヴァーチャルリアリティに没入できるので同一条件化での視覚的な比較が出来てそれらを数値化できると思っています。今まで曖昧になっていた建築という領域がそれで変わっていくのではないかと思っています。他のマスプロダクト作っている業界だったら当たり前で、使い心地とかそういったレベルの感性品質の話はありますよね。デザインがいいものが必ずしも使い心地が良いわけでもない。中に入ってみて実際に人間が心地よいと思うものは何なのか定量的にわからないですよね。光が入れば気持ちがいいのか、風が入れば気持ちいいのか、そういう曖昧なものがもう少しデータで分かってくればVRの技術もすごいことになる。

森村|その時にどういったものを最初に作るのかのウェイトが上がってきますね。

綱川|そうでしょうね。でもそこが建築家の仕事でしょうね。今までは勘でやっていて、あるいはそれぞれの建築家のスタイルというか個性ということで片付けてしまっていたものがもう少し具体になっていくといいですね。
そのあたりに今まではリスクがあったので、発注者のメリットは大きいと思います。発注者側が意見しやすくなるというか、気持ちを入れやすくなるみたいな、そういうBIMであってほしいなと僕は思っています。

森村|実務レベルでは部材など特殊なオブジェクトを作っていかないといけないと思いますが、BIMがもっと普及していくのに業界全体でデータを作っていく動きが必要なのでしょうか。

綱川|それはずっと言っています。ちょっとずつ形になっています。メーカーさんがBIMのためにオブジェクトを用意しようという流れになっています。あと数年すればきっと充実してくるので、今足りないものは用意するしかないと思っています。それが逆にできないと「BIMって使いにくいよね」と言われてしまうことはわかります。

■これから
森村|BIMによってゼネコンの仕事に変化はありますか。

綱川|今ゼネコンが苦労しているのは設備の入力です。もともとゼネコンの設備設計は実寸でものを考える仕事ではなくシステムを構築するところまでがほとんどで、それらは実際には現場でサブコンがやっていました。従来サブコンがやる仕事を我々ゼネコンがやるという事態がBIMによって起こっています。

極端な言い方をすれば、責任範囲の話で言うと最終的に元請であるゼネコンは全部やらなければいけなくなる。最終的に建物を引き渡さなくちゃいけないゴールがあるわけだから多少その辺は越境してでもやるしかないという話が生まれています。構造の仕事も従来は構造計算して確認申請を通すことが一番大きな仕事です。正直言って詳細なディティールは二の次だった。鉄骨の細かいディテールまで設計で意識するようになったのはBIMを始めたからです。さらに施工まで結局やるという前提で物事を考えていくことになります。どうやって施工しようかと考える段階では、設計事務所ならば守備範囲外で後はゼネコンが考えればいいという話になるかもしれない。しかしBIMを行う際には意匠設計の人間であっても従来の範疇で収まらなくなっていろいろなことを考えることになります。例えば電気設備設計の人も今までは照度だけを考えておけばよかったところが3次元空間の明るさ感といった全体のデザインまで気を使わなければいけなかったり仕事の境界が曖昧に混ざってきた。意匠設計、構造設計、設備設計という縦割りだったものが、BIMを使うと仕事やっていく中でそういう組織じゃなくなっていく。さすがに新規の採用の際は意匠設計、構造設計、設備設計という取り方をしていますが、基本的にはBIM推進グループの中では横断的な仕事の仕方が定着してきました。
 もともと意匠の人間は全部わかってないとだめだと昔から言われていますし、組織の中で全体をマネジメントできるのは意匠設計じゃないといけないと思われてきました。割とその辺が今崩れてきていて物件によっては設備のウェイトが大きければ設備の人間がプロジェクトのリーダーを担当したりと少し変わってきています。海外の事例なんか見てると、意匠、構造、設備がもっと連携しないといけないなと思います。チームとして設計を行う意識です。BIMはそのためのツールでもあります。
 また客観的な過去のデータだけではなく、いろんな人の生の意見を入れていって、建築家や施主の鶴のひと声でもなく、いろんな立場の複数の人の声が反映されていくような仕組みができると思います。最近はワークショップで物事を決めていく市民参加型の建物も増えてきましたが、かなり手間と時間がかかる手段です。今後はBIMを使用して多くの人間がイメージを共有しながら設計を進めることが容易になるはずです。

森村 今日はありがとうございました。


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