八束はじめ特別寄稿 2/3

君たちはスコピエを知っているか?―モダニズムと復興と記憶

これも展覧会の宣伝めいて恐縮だが、上記の命題を敷衍する前に、こういう問いかけをとりわけ若い建築家や学生諸君にしてみたい。「スコピエなんて、今の若い人たちは知らんで」。これは安藤忠雄が私に語ったことばである。メタボリズム展に、震災だからこそスコピエをとりあげたいのだという私の発言への返答だった。だから、そのまま若い読者に問いかけたい、君たちは本当にスコピエを知らないのか、と。安藤のいうように、日本の建築界とはかくもアムネシア(記憶喪失)に浸っているのか?ポストモダンの「歴史以後」症候群はかくも進行しているのか?現在のためだけに考えること(ビーダーマイヤー)とは知的堕落ではないのか?だが、それは日本国内に限った話しではない。

丹下健三チームが復興計画を行った当時のユーゴスラヴィアの都市スコピエは、1963年に大震災に襲われて市街地が倒壊した。死者は1000人、家を失った人々は12万に上がったという。1000という数字を神戸や今回の震災と比べることには意味がない。それは今回の数字を、22万を超すといわれるスマトラ沖地震や、文革の真っ最中だったために政策的に被災者数が伏せられているが、一説では60万とも70万ともいわれている唐山地震の被害者と比べても意味がないのと同じだ。丹下チームは65年に国連の肝いりで行われた国際コンペに勝ち、チームはそれを実施に移す作業にいそしむべく66年の初頭に現地に赴いて、丹下自身も何度か現地に赴いている。彼らの案の骨子は地震で倒壊したスコピエ駅(現在でも被災を記念する施設として一部が使われている)とインターチェンジが合体したものから市内へと入っていく業務中心の新都心部(シティゲート)と、倒壊したものの既存の街区を残している部分を囲うかたちでデザインされた連続する板状のアパート群(シティウォール)である。

結局丹下の案はそのまま実施されたとはいい難く、駅とシティゲートの高層ビルの一部が原案をどことなくなぞったような形で実現されている(いずれも丹下の作品集に掲載されたことはなく、いわば作者に認知されてはいない)。それだけはない。イタリアの雑誌ABITAREの記事によると、この痕跡ごときものすら政治的に抹消される危機にあるという(旧ユーゴ出身のスルジャン・ヨヴァノヴィッチ・ワイスによる記事は「スコピエは消滅するだろう」と題されている)。ワイスによれば、ユーゴから分離するかたちでマケドニア共和国となった(ただし、旧マケドニア領の一部が含まれているギリシャからこの呼称の認知を拒否され、この紛争は未だに解決されていない)この国は、丹下によるモダンな都市像を否定し、かつてのマケドニア帝国の歴史を半ば虚構としてその上に被せようとしている、という。いわば虚構された古典様式であるポストモダンの国家イメージ版である。

「それが起きたら、63年の震災以降『連帯の都市』の原理に従って再建されてきたスコピエのオープンで国際的な性格(マケドニア人のみでなくアルバニア人やジプシーの人口がいること=引用者註)は傷つけられるだろう。‥‥この政府の意図が前進すれば、スコピエはもはや日本のヴィジオナリー(丹下のこと=引用者)が計画したような未来の都市ではなくなる。この過去の操作の遂行には反対もある。それは強力で知的でもあるが、断片的でしかない」。震災をきっかけに導入された国際的な未来への挑戦(これを有形無形のメガストラクチャーと呼ぼう)の痕跡が地域性と歴史の名の下に根絶されようとしているというのだ。これは通常だと地域主義の側からなされる国際主義への抗議の反転した姿である。先に「歴史以後」症候群の進行が日本国内に限った話しではないと書いたのはこのことである。

しかし、安藤がいうように「スコピエなんて知らん」若い日本の人々には、目の前の震災はさすがに意識から締め出すには生々しすぎるとしても、マケドニアは何としても遠いのかもしれない。丹下の震災復興プロジェクトの模型を今日の東京で展示することはどういう意味があり得るのか?

もちろん、上にも書いたが、震災の現場に丹下風の英雄的なメガストラクチャーをつくれなどという積りはない。英雄は現場で危険で忍耐力と勇気を要する復旧の仕事をしている人々であって、建築家の出る幕では、この意味では、ない。しかし、丹下チームが震災という(あるいはその以前では原爆という)心を折るような出来事に立ち向かった勇気は冷笑されるべきことなどではない。丹下は広島の再建のプロジェクトにおいて、被災者の収容のための住宅建設など目の前の復興か、未来に向けての建設(平和記念公園の造営)かと自問して、その両方を、と答えた。これは楽観ではなく勇気である。勇気は未来に形を与える。それは、彼の影響下にあったメタボリストたちにも受け継がれたと私は考える。見てほしいものは個々の形ではなく、それ(見えないメガストラクチャー)なのだ。


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